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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

10月17日・2・26事件の時の首相・岡田啓介海軍大将の命日

サンフランシスコ講和条約が締結され日本が独立を果たした昭和27(1952)年の明日10月17日は2・26事件で首相として最大の標的になった岡田啓介海軍大将の命日です。
2・26事件を描いた研究書・小説・映画・ドラマなどでは冷害に苦しむ農村、金融恐慌以降の不況の中で酷使される労働者と財閥の贅沢三昧な生活や政争に明け暮れる政治屋たちとの対比でクーデターに正当性があり、純粋に国家を憂いていた決起将校たちを賛美するような表現になっていましたが、それは東條英機に代表される帝国陸軍主流派への怨嗟に基づく史実の歪曲であることは明らかです。実際、2・26事件で襲撃された閣僚たちの多くはむしろ常識的な国際人で大正デモクラシーによって都市部に浸透した自由主義を容認しており、だからこそ若き日のヨーロッパ歴訪で同様の空気に触れ、それが日本に定着することを願っていた昭和の陛下の信頼を得ていたのです。
考えてみれば岡田首相や鈴木貫太郎侍従長、殺害された斉藤実内大臣の3人は海軍大将であって決起将校たちが盲信・盲従していた真崎甚三郎や荒木貞夫などの陸軍大将と収入に大差があるはずはなく、貴族趣味で西洋かぶれの豪奢な生活などと言うは陸軍軍人の勝手な極めつけに過ぎず、結局、山口軍閥が患っていた国粋主義に凝り固まって時代を逆行することのみを正義と信じ、それに反する者は全て悪と断じて排除しようとする吉田松陰の狂気から脱し得なかった帝国陸軍の病理が凶行の原因なのです。実際、岡田首相は政治家に転身してからは政治資金の捻出に苦労しており、首相の給与の半分をこれに当てていたため一般の公務員よりもはるかに貧窮な生活を送っていたようです。
ただし、岡田首相自身にも決起将校などの国粋主義過激派に憎まれる原因がありました。それは首相在任中に生起した東京帝国大学法科学長の美濃部達吉博士が唱えた「天皇機関説」問題で国会が紛糾した時、一貫して容認姿勢を取り続けたため同じく東京帝国大学の上杉慎吉博士の「天皇主権説=神授説」を主張する国粋主義者たちの批判を浴びたのです。この時、「日本の国体をどう考えているのか」と追及されて「憲法第1条に書いてあるとおりです(=大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス)」と答えたため、「憲法第1条にはどう書いてあるのか」と再質問されると「憲法第1条に書いてあるとおりです」ととぼけた答えを返したそうです。しかし、国会で多数派だった野党が内閣不信任案を提出したため解散で応じ、その選挙で逆転勝利して多数派を占めた6日後に事件が勃発しました。事件では秘書として首相公邸に泊まり込んでいた妹の夫であった松尾伝蔵陸軍大佐が身代りに殺されたことで奇跡的に脱出に成功しましたが、事件が終息した3月9日に内閣は総辞職したのです。
首相を退任してからは政治の表舞台に立つことはなかったのですが、本来は常識的だったはずの東條英機首相が国家主義者に変貌し、強気に戦争を推し進める一方で国内では特高警察を使って思想統制=弾圧を加えるようになったのを見て倒閣に動き出し、ミッドウェイ海戦での敗北とガダルカナルでの消耗戦を切っ掛けにそれを公然化させるようになったのです。粘着質な東條首相がこれを放置するはずがなく、首相官邸に呼び出して恫喝したのですが岡田元首相は逆に即刻退陣を求め、「逮捕拘禁するぞ」と脅迫しても全く意に介さなかったと言われています。
サイパン島の陥落を受けて東條内閣が総辞職すると小磯国昭内閣に米内光政大将を海軍大臣として送り込み、さらに鈴木貫太郎大将を首相に据えて自分は終戦に向けての工作の裏方として尽力しました。
ポツダム宣言の受諾が決まった時、岡田元首相は娘婿の秘書官に「私たち軍人が降伏を決意する時の気持ちはお前たち軍人ではない者には決して判らない」と語ったそうですが、軍人にとって「降服」は「敗北」に他ならず自己を責めるしかない事実なのです。
  1. 2017/10/16(月) 09:33:40|
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