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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

10月20日・連合艦隊首席参謀・黒島亀人少将の命日

昭和40(1965)年の10月20日に山本五十六長官が連合艦隊を務めている間の首席参謀だった黒島亀人少将が亡くなりました。黒島少将は作戦を考え始めると素っ裸で自室にこもり、食事や入浴を忘れても煙草だけは吸い続けたと言いますから死因はやはり肺癌です。
黒島少将は日清戦争の前年である明治26年に広島県呉市で石工の息子として生まれますが、3歳の時に父親(亀太郎さん)が出稼ぎ行っていたロシアで急死したため母親は離縁されて実家に戻り、亀人少年は石工と鍛冶屋を営む叔父の養子になりました。小学校を卒業してからは養父の仕事を手伝いながら地元の夜間中学に通いますが、成績が良かったこともあり広島市の私立中学の夜間部に編入しています。ここでも成績が良かったため(当時は家庭の事情で昼間部に入れない苦学生も多く成績に遜色はないでしょう)養父母は「医師にしたい」との夢を抱いたのですが、本人は「一生喰うに困らない軍人になろう」と対岸にある海軍兵学校を受験し、大正2(1913)年に入校しています。この頃の日本では日清・日露戦争によって脅威となる敵がいなくなったことで平和を謳歌する気分が充満していて軍人の人気も急落しており、黒島少年の志望動機も決して不謹慎なものではなかったのでしょう。兵学校では坐禅と哲学に熱中していたそうですが、これが周囲から奇人変人扱いされていた原因なのかも知れません。卒業後は大正8(1919)年に水雷学校、翌9(1920)年に砲術学校に入校しており、最終的には砲術士官=鉄砲屋としての道を歩み始めます。
昭和14(1939)年10月に大佐で海軍大学校教官(担当は戦略)から連合艦隊首席参謀になりますが、この人事は8月に司令長官に着任していた山本五十六大将の引き抜きだったと言われています。
山本大将は旧来の海軍的常識に凝り固まった参謀長の宇垣纏少将とは馬が合わず、型破りな発想力と徹底的な探求心を持ち、思いついたことを直言する黒島大佐を重宝するようになり、参謀長を飛び越して指示・報告を交わすようになってしまったようです。
日米開戦が避けられない事態に陥ると山本大将は海戦史上に前例がない空母機動部隊による空襲でハワイ・真珠湾のアメリカ海軍太平洋艦隊を撃滅する構想を抱き、大西瀧治郎少将に航空攻撃の具体的な実施案を作成させた上でそれを黒島大佐に手渡して作戦計画を立案させたのです。
当初の黒島案では日系人の蜂起を期待して航空攻撃に続き艦隊主力による砲撃を加え、その後に陸戦隊を上陸させてハワイを占領すると言う破天荒なものでしたが、占領後の補給が困難であることを理由に山本大将から却下され、空襲による艦隊の撃破のみに絞られました。
続くミッドウェイ作戦は北太平洋アリューシャン列島のアッツ島・キスカ島とミッドウェイ島の占領も企図する壮大なものでしたが(敵艦隊の撃破は副次的な目的だった)、あまりに壮大過ぎて作戦計画に瑕疵が生じており、結局、大きな損害を被っただけて戦果はなく(アリューシャン列島の占領だけが成功した)失敗に終わってしまいました。
当時、黒島少将は日本海海戦における連合艦隊の秋山真之作戦参謀と並び評されることがあったのですが、秋山参謀は海軍兵学校をトップで卒業した上(黒島少将は95人中34番)、アメリカ留学の経験を持ち(黒島少将にはない)、連合艦隊司令部ではそれ以上の天才・島村速雄参謀長の薫陶、時には叱責も受けていますが、黒島少将の頃には日本海軍の体質が硬化してしまっていたこともあり、山本大将以外に作戦・発案に異論を差し挟める者がおらず、連合艦隊から軍令部に移動してからは特攻兵器の開発などの暴走を始めてしまいました。
黒島少将の罪科としては敗戦後、遺族や関係者を騙して借用した宇垣中将の私的業務日誌と所感集「戦藻録」の自分に不利な部分を無断で削除して廃棄したことがあります。これで晩節を汚しました。
  1. 2017/10/20(金) 09:14:12|
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