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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

10月21日・「豊橋の偉人」になっている詩人・丸山薫の命日

昭和49(1974)年の10月21日は豊橋市在住で愛知大学の客員教授を務め、近隣の学校の校歌を数多く作詞した詩人・丸山薫さんの命日です。
野僧の出身中学校の校歌も丸山さんの作詞で、最初の国語の授業で校歌を習い(教師は詩の作品として冒頭の「白雲」を「しらくも」ではなく「しろくも」と唄うことを強調していました)そこで名前を知ったのです。その後、書店で丸山さんの詩集を見つけて購入したのですが、海に憧れて東京高等商船学校に入学した頃の船や海を詠った作品に海軍少年としては大いに感動し、海上自衛隊生徒を目指す受験勉強の合間に口ずさんでやる気を高揚させていました。「・・・風下当番という 若い顔した風がいる 点鐘を鳴らし 号令をふれ歩く 二人の風が船尾に立っている 風上当番(ウェザアヘルム)と風下当番(リイヘルム)と・・・(詩集『点鐘鳴るところ』の『風』より)」 
結局、海上自衛隊生徒の合格通知を父親に破り捨てられ、自宅から最も遠い海辺の高校に入学することになりましたが、その高校の校歌も丸山さんの作詞でした。「東海の蒲郡 雲淡紅(くも・ばら)に輝きわたり よせ来(きた)る春の汐 ふるさとの良き朝を・・・(蒲郡高校の校歌)」ちなみに母親の出身校である豊橋市内の商業高校の校歌も同様でした。
丸山さんは明治32(1899)年に有能な国家公務員の息子として現在の大分県府中市の公務員官舎で生まれました。翌年には父親の転勤で長崎に、4歳でまた東京の丸ノ内に、さらに6歳で韓国のソウルに移り住み、そこで小学校に入っています。そして9歳の時に父親が島根県知事になったため東京経由で松江市に引っ越し、同時に転校しました。ところが12歳の時に父親が病気にかかって退官したので東京の西大久保に身を寄せた後、夏に父親が死亡したのを受けて、母方の祖父が住む愛知県豊橋市に預けられることになりました。豊橋市ではトップとされている旧制中学校(現在は愛知県のベスト10に入っていない)に入学すると愛読していた海洋冒険小説にロマンを掻き立てられ船乗りに憧れるようになり、周囲の反対を押し切って東京高等商船学校を受験し、1度失敗したものの翌年には合格しました、身体を壊したことで除籍になり、はかない夢と終わってしまったのです。傷心の丸山青年は志(こころざし)が定まらぬまま第3高等学校の文科丙類に入学しますが、やはり勉学への意欲が湧かず出席日数不足で留年し、このことで三好達三さんや桑原武夫さんと同級生になりました。こうしてようやく文学への意識が確立すると作品が校友会の雑誌の文芸賞に選ばれ、いよいよ文筆家への道を歩み始めたのです。
大正15(1925)年に27歳で東京帝国大学文学部国文学科に入学しますが、29歳で結婚したため中退し、詩作に専念するようになります。この頃の作品が前述の船(東京高等商船学校の実習船であった帆船の日本丸や海王丸が舞台)や海を謳った詩です。戦中・戦後と山形県西村上郡西川町岩根沢に疎開してそこで代用教員を務めた後(ここにも記念館があります)、昭和23(1948)年に豊橋市へ帰り、ここに定住することになりました。豊橋では中国の上海にあった東亜同文学院が帝国陸軍の駐屯地・練兵場跡に移転して開設した愛知大学の客員講師になり(この頃の学長は山形県出身でしたが前述の経歴と関係あるかは不明です)、後に客員教授となって東三河地区では数少ない文化人として尊敬を集めるようになったようです。
丸山さんは数回の転居の後、静岡県との県境に近い山間部に居宅を構えています。この家には三好達三さんや城山三郎さんなどの高名な詩人や文筆家が訪ねてきたそうですから文化過疎地の豊橋市としては得難い存在だったのは間違いありません。
  1. 2017/10/21(土) 09:05:43|
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