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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

10月22日・ばってん荒川=お米ばあさんの命日

平成18(2006)年の10月22日は九州で絶大な人気を集めていた肥後俄(ひご・にわか)の名手・ばってん荒川=お米ばあさんの命日です。
「俄(にわか)」は泰平の世になった江戸時代から明治にかけて街頭で行われた素人の大道芸や宴席で酔客が始める即興芸を指したため「俄に始める」で「俄」の名がついたのです。また素人芸であることから茶の間の他愛のない演芸と馬鹿にして「茶番」とも言います。しかし、現在は遊郭・料亭などで本職の幇間(たいこ)が演じた宴席芸の要素も取り入れており伝統文化に加えられています。
歴史については酒があるところならどこでも自然発生する芸能なので発祥の地などは明確ではありませんが(同様の芸能が伝承している地域は20以上あるとされています)、大阪俄は8代将軍・徳川吉宗の享保年間には街中で芸能が行われており、田沼意次さまの宝暦・明和年間には職業化して、松平定信さんの寛政年間には江戸へ進出したと言われています。しかし、松平定信さんの寛政の改革では風紀の取り締まりが強化されていたので町人の街・大坂(当時の用字)では許されても江戸では公演の場所さえ見つからなかったのかも知れません。
一方、福岡の博多俄(「仁和加」とも書きます)は「黒田長政公が藩主になった時、播磨の一宮である伊和大明神の『悪口祭』を模倣させたことに始まる」と言う説とお家騒動を引き起こした馬鹿殿の悪評が高い2代藩主・忠之さんの放蕩の中で生まれたとする説などがありますが、幕末になってから芸人の名前が記録に残るようになり、明治12(1879)年になって幾つかの専門の芸能集団が旗揚げしています。
博多俄は「ぼてかずら」「にわか面」と呼ばれる目の部分だけの面をつけるのが特徴で、演目としては1人で演じる「一人仁和加」、複数で演じる「掛け合い仁和加」、(他の芸などの)借り物にかけて演じる「借り物仁和加」、客からお題を頂戴して演じる「即興仁和加」、(歌舞伎などを模して)芝居形式で演じる「段物仁和加」があります。
九州では荒川さんが発展させた熊本の肥後俄もありますが、こちらは日清戦争以降に盛んに興行されるようになったと言われています。特色としては話芸に優れ、舞台だけでなくラジオでも人気を博していたことです。現在でこそ九州最大の都市は博多を有する福岡市ですが、江戸時代から敗戦後までは熊本が中心地とされており、博多俄とどちらが先に始まったのかには議論の余地があります。やはり酒があるところには自然発生する芸なので同時多発・相互影響と見るべきなのかも知れません。
この他にも佐賀俄や鹿児島俄がありますが、幕末には存在したものの明治の間は新政府の中枢に人材を送り込んだ立場上、風紀の取り締まりが厳しくなって途絶えてしまい、大正になってから博多や熊本の俄を模倣する形で復興しています。
野僧は福岡県の春日基地で勤務していた頃、偉いさんの退官パーティーだったように記憶している大きな宴席で荒川さんの芸を見たことがありました。当時は「俄(にわか)と言われてもお菓子の「二和加煎餅(にわかせんべい)」に使われている両目の面の宴席芸であることくらいしか知りませんでしたが、九州弁丸出しの掛け合いと珍妙な仕草に会場は大爆笑になりました。小休止の後、舞台に和装の老女が現れると会場には割れんばかりの拍手が起こり、「待ってました。お米さん」とあちらこちらから声がかかりましたから実はこの老女が主人公だったようです。
荒川さんはこのお米さんを18歳の頃から演じていて(計算上、青島幸男東京都知事が「いじわるばあさん」で女装する12年前になります)、代名詞だったそうです。
会費はやや高かったけれど荒川さんの芸とお米さんの和服姿が見られたので満足です。
  1. 2017/10/22(日) 00:07:02|
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