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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ991

岡倉はジアエの予定日である6月に入り、韓国に帰宅した。今回の名目は担当しているイランの核開発問題でロシアと中国が最新鋭の地対空ミサイルを売却して、イスラエルによる専制的自衛権の行使=奇襲的空爆を阻止している情報を韓国の貿易会社を通じて調査することだった。
「貴方、やっぱり来てくれたのね」ジアエは予定日が直前に迫ってからは実家に戻っており、大きな腹で嬉しそうに玄関まで出迎えた。
「うん、元気そうで安心したよ」「だって妊娠は病気ではないもの」そう言った妻を抱き締めて口づけをしたが腹がつかえていつもとは距離感が違った。
「予定日は明日だけど全く兆候がないの」廊下を歩きながらのジアエの報告に予備知識を持たない岡倉は少し不安になる。考えてみれば現在の職場で子供を持つのは岡倉が最初だ。
「ふーん、医者は何て言っているんだ」「大丈夫、母子とも健康です」岡倉の声を聞き、台所から義母が顔を出した。この義母も間もなく祖母になる。日本では「お祖母ちゃん」と呼ばれることを嫌う妊婦の母親が多いと聞いているが、儒教精神が根づいている韓国では子孫を得ることは女性の誇りであり、義母もどことなく貫禄がついたように見える。
「タイガー、わざわざ有り難う。これでジアエも安心して孫を産めます」「でも仕事として来ているんだからこの子が父親の予定に合わせて生まれないとね」「それが親孝行の踏み絵、親子の絆の証明になりそうだな」「そんなプレッシャーを掛けないで」自分が言い出した出産の条件を岡倉が具体的にするとジエアは腹を撫でながら拒否した。そんな母親になり切っている妻の姿を見ながら岡倉の胸には何故かジェニファーの顔が過った。

「この子の名前だけど」夕食の席でジアエが訊いてきた。どうやら岡倉が義父と酒を酌み交わし、酔ってしまう前に質問したらしい。
「俺は韓国での命名の作法を知らないから1人では決められないよ」岡倉は尊敬に値する韓国人が思い当たらず本当に白紙だった。
「確かにそうだろうが希望があれば言ってみなさい。韓国語としての語感が美しければそれで良いだろう」義父の助言を聞いて岡倉は1つだけ考えていた名前を言ってみた。
「タツローと言うのはどうだろうか」「どんな字を書くんだね」義父に訊かれて岡倉は義母が差し出した紙にボールペンで書いて隣りのジアエに渡した。これは言うまでもなく先日、チベットで死んだ村田達郎2佐の名前だ。村田の人生が幸福だったのかは判らないが見事であったことは間違いない。その雄々しい魂を我が子が受け継いでくれればと言う願いを込めた選択だった。
「タチェウだな。イ・タチェウ(李達郎)か・・・何かを達成する人と言う意味だね」義父の反応は悪くない。しかし、義母は女性らしい心配をした。
「でも韓国人にはあまりない名前だから日本人の子供だって知られると苛められないかしら」「そうですか?」アメリカ在住の岡倉は最近の韓流ブームを知らないが、帰省する度に空港や列車では日本人の中・高年女性が増えている。彼女たちの若い娘のようなハシャギ振りに今までの物見遊山と異なる熱い憧れを感じていた。
「今は一過性のブームになっているが遠からず政治が反日に舵を切るだろう。それが子供の入学時期と重なれば格好の苛めの対象になる懼れはあるな」義母の意見に義父は手のひらを返すように同調した。するとジアエがきまり悪そうに口を挟んだ。
「それじゃあ、私が考えていた名前も駄目ね」そう言ってジアエは岡倉の前の紙を引き寄せ、3つの漢字を書いた。それは「李周作」だった。
「ジュジャク、イ・ジュジャクかァ、少し語感が合わないな」「これも日本人の名前だね」やはり両親は難色を示す。しかし、岡倉にはその名前の由来は判っている。
「遠藤周作の名前だな」「ええ、カソリックとしての私の目を大きく開いてくれた本の作者だもの」それは村田からもらって渡した英語版の「沈黙」と「深い河」のことだ。この名前なら村田の思い出とも重なる。そこで岡倉は応援の見解を述べた。
「遠藤先生なら世界的カソリック作家ですから韓国の信者が名前を取っても不思議はないでしょう」「まあ、男の子とは限らないからな」義父がオチをつけてこの場はお開きなった。
  1. 2017/10/28(土) 09:14:09|
  2. 夜の連続小説8
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