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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

10月30日・余りにも大きかった失われた人材・高野長英が殺された。

嘉永3(1850)年の明日10月30日(太陰暦)に江戸時代最大の蘭学者であり、幕府が重用していれば歴史を変えたことは間違いない高野長英さんが殺害されました。
高野さんは文化元(1804)年に現在の岩手県水沢市にあった伊達藩の支藩の藩士の3男として生まれ、支藩医の高野家に養子に入りました。この養父は若い頃、江戸で杉田玄白に蘭方医術を学んだことがあったため家には蘭方の医術書が山ほどあったのですがあまり優秀ではなかったため殆ど読めず、聞きかじりの蘭方医術を学びながら憧れだけが膨らんでいったと言われています。
そうして17歳の時、頼母子講で引き当てた資金で勝手に江戸へ出て同じ伊達藩の一関支藩から杉田玄白の養子になっていた杉田伯元さんの天真楼塾に入門します。ところが下宿先で知り合った吉田長淑さんの学識に感服するとアッサリとこちらに乗り換えたのです。この非礼さが高野さんの欠点でありますが、当時としては日本最高の蘭学者だった吉田さんにとっては得難い後継者であり、名前の1字を与えられて「長英」と名乗っています。その後は長崎の医師が江戸に出てきた折の借金の取り立てを引き受けて長崎に遊学し、ここでズィボルトさんの鳴滝塾に入門しました。日本最高の蘭学者の愛弟子である高野さんは鳴滝塾でも忽ち頭角を現し、二宮敬作さんなど共にシーボルトさんの片腕として本当の目的である諜報活動の手助けとして日本での文書の翻訳などを行うようになりました。こうしてオランダ語と蘭方医術に磨きをかけ、さらに海外情報を収集した頃、持ち出しが禁止されていた武具や地図などを送ろうとしたオランダ船が台風で難破したことで発覚したシーボルト事件が起こりますが、高野さんは抜群の嗅覚でそれを察知して長崎を後にしており、手配を逃れて江戸へ赴いたのです。
江戸では田原藩の江戸家老でありながら蘭学に傾倒していた渡辺崋山さんと出会い、やがては尚歯会と言う蘭学の研究会を結成して、それまでは徒弟制度の枠の中で縦に伝えられていた蘭学の知識や海外情報を共有し、議論によって見識を広め深めることに指導的役割を果たすようになったのです。
尚歯会の存在は外国船の出没が頻発化する中で将軍の耳にも届き、内々に意見具申する機会を与えられることになったのですが、それを旧来の儒学の危機と考えた鳥居耀蔵が策略を巡らし、存在しない罪を捏造した上で関係者にその虚構を流布・周知して摘発させた蛮社の獄が起こりました。この時の高野さんの罪状は友人たちの間で回し読みした書物で幕府の対外政策を批判したことですが、これはあくまでも私文書であり友人たちが又貸ししたことで拡散したに過ぎませんでした。尤も、渡辺さんも同様に未発表の私的論文で摘発されていますから鳥居の根回しがどれほど周到であったかが判り、それはそのまま尚歯会に対する強い敵意の表れでもありました。渡辺さんは無実の罪で田原藩国元での蟄居となりやがて自刃、高野さんは伝馬町の牢獄につながれることなりました。それから5年にわたり投獄生活を送りますが、やがて手懐けた牢人足に命じて放火させ、その火災による解き放ちに乗じて逃亡したのです。
しかし、この時には鳥居は数々の悪事が発覚して失脚しており、町奉行には尚歯会に理解を示していた遠山景元さん(=金さん)が就任した直後でしたから、このような非常手段を用いなくても無罪放免されることは決まっていました。
結局、脱獄と言う重罪を負うことになり、逃亡生活は壮絶になりましたが、それでも二宮さんが藩医を勤めていた宇和島藩に匿われて西洋式砲台を設計し、故郷にも帰り、やがて協力者により死亡情報が流れると硝酸で顔を焼いて人相を変え、江戸で町医者としての生活を送るようになりますが、伝馬町で同じ牢だった人間の証言で捕り手に踏み込まれ、撲殺されたとも自害したとも言われています。
高野長英(佐藤耕雲)
若き日の高野長英(有名な肖像画と比べると壮絶な後半生が偲ばれます)
  1. 2017/10/29(日) 00:24:06|
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