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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ993

「タイガーはどうしようかな」病院に連絡がつき、岡倉がジアエを車の後席に乗せていると運転席のドアの前で義父が意外なことを言い出した。これには義母も困惑している。
「ジアエは父親の名前を申告しないで診断を受けているんだろう。そこに本人が現れてはまずいんじゃないのか」確かにこれは盲点だった。本来であれば岡倉が気がつかなければならない秘密保持のための配慮だ。やはり岡倉も妻の初めての妊娠・出産に舞い上がっているらしい。
「私は大丈夫だから貴方は残って。本当は1人で産むつもりでいたんだからこうして来てくれただけで十分過ぎる激励よ」岡倉が判断に困っているとジアエが毅然として制止した。岡倉としては「兄」として立ち会うことができないかを思案していたのだがそれを未練と言うのだろう。
「そうですか、それではよろしくお願いします」「まかせておいてくれ」「十字架は私たちの寝室にありますから主に無事な孫の誕生を祈っていて下さい」義父母の返事にうなずいてドアを閉めようとするとジアエが手で押さえた。
「貴方、激励のキスを・・・」岡倉はジアエの言葉が終わる前に両手で頬を挟んで口づけをした。

「初産ですから子宮口が固いのでしばらくかかりますよ」医師の言葉にジアエは静かにうなずいた。
これは母親からも聞かされていることなので覚悟はできている。ただ父親は緊張した顔になった。やはり妻と娘では同じ出産でも感じる不安が違うらしい。何にしても男には何も出来ることがない。それは岡倉がこの場にいても同じだったはずだ。
先に病室に案内されて待機することになり、母親とジアエは分娩室での注意事項や出産までの経験談と質疑応答を繰り返しているが父親は1人で天井を見上げている。間もなく日付が変わる時間なのでテレビをつけても気を紛らわせる番組などはない。すると同時に陣痛が始まった。
「スースーハーハー」生真面目なジアエは教えられた通りの呼吸法を始める。母親は腰をさすりながら一緒に声を出してリズムをとり、するとジアエの額に汗がにじんできた。これを繰り返すうちに陣痛の間隔がさらに短くなり、やがてジアエは分娩室に連れて行かれた。
「スースーハーハー、ウウン」分娩室では看護師が腰をさすっている。真面目に呼吸法をしながらもジアエは呻き声を上げるようになった。苦痛に耐えながら顔をゆがめ、汗と涙がにじんでいる。その間にも看護師たちは手際よく出産と胎児の計測や洗浄の準備を進めていた。
「お前の時もこんなに苦しんだかな」「貴方はオロオロして何も言えなかったじゃない」分娩室まで付き添った両親は小声で話し合っているが、こんな時も母親は経験者として落ち着いていても父親は単なる見学者以上の場慣れはしていないようだ。
「そろそろご両親は廊下に出て下さい」と医師に言われ母親は「頑張りなさい。カミの御加護を」と娘に声をかけたが、父親は逃げるとように出て行ってしまった。
「よろしく、お願いします」母親が医師や看護師にも頭を下げてから廊下に出ると父親は分娩室の前に置いてある長椅子に座っていた。母親が隣りに座ると父親は深い溜め息をつく。その緊張し切った横顔を眺めながら母親は「自分の時もこうだったのか」と言う懐かしさと「娘だからなのか」とのかすかな嫉妬を感じていた。
子供は中々生まれない。分娩室からはジアエの呻き声と看護師の励ましの声が聞えてくる。その時,ジアエが「貴方」と絶叫したのが聞こえ、同時に「生まれた」と言う看護師長の声と赤ん坊の泣き声が響いてきた。初夏の眩しい朝日が窓から射し始める時間だった。
「立派な男の子だよ・・・」看護師が言葉の後半を濁したのはこの子が父親似だからかも知れない。病院に申告できない父親のことを出産直後の女性の耳に入れるのは心理的にも好ましいことではないのは当然だ。しかし、ジアエにとってそれは本当に喜ばしいことだった。
「旦那さまにそっくり。嬉しい」娘の喜びの声にも両親は心配になってくる。両親は岡倉の韓国人にはあまりない顔を思い浮かべながら顔を見合せて互いの内心を確かめ合った。
「生まれたよ。元気な男の子よ」母親が自宅に電話をすると岡倉はしばらく出なかった。やはり奥の寝室で祈りを捧げていたのだろう。すると父親が奪うように受話器を取った。
「タイガー、素晴らしい孫を有り難う」やはり父親としての貫録は婿に発揮されるもののようだ。その癖、涙ぐんでいるのを隠して鼻水をたらしているのは男の見栄なのかも知れない。
  1. 2017/10/30(月) 09:28:00|
  2. 夜の連続小説8
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