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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ994

「名前を決めなければいけないな」病室で産後の眠りから覚めたジアエに父親が声をかけた。
「旦那さまの意見は」「電話で訊いてみたんだけど、こちらの候補が決まったらもう一度、連絡をくれだって」母親の説明にジアエは少し申し訳なさそうな顔をした。これまでの話し合いでも両親の主張が強過ぎて夫の本音は聴けていないような気がする。母親の希望で「聖」の字を入れることが決まったのだが、夫にはそんな文字はないのだろうか。ジアエははしゃいだようにうなずき合っている両親の横顔を黙って眺めていた。
「男の子だったんだから『聖』は決まりとしても下はどうしましょう」母親は自分の希望がかなって誇らしげに仕切り始める。
「うん、朝の陽射しが眩しい時に生まれたんだからセオングワン(聖光)なんてどうだ」「それならセオンイル(聖日)でも良いわよ。イ・セオンイル(李聖日)なんて素敵じゃあない」母親は自分の意見に同調させようとジアエの顔を見たが、その哀しげな目に気づいて口をつぐんだ。
「ジアエは何か意見でもあるの」「言いたいことがあれば言いなさい」しばらくの沈黙の後、両親は娘もこの喜ばしい話し合いに引き込もうと声を掛けてきた。
「私としては旦那さまに決めてもらいたいの。例え日本人の名前だとしてもそれが良いわ」ジアエの真剣な目を見て両親は互いの顔を見詰めながら押し黙ってしまった。
まだ立ち上がれないジアエは携帯電話をかけ、両親はその様子を固唾を飲んで見詰めていた。
「やっぱり私たちの子供の名前は父親である貴方に決めて欲しいの」ジアエは岡倉の意見を求める。
「ご両親は何て言っているんだ」「母は聖の字を使う名前ばかりで、父もそれに同調しているわ」ジアエの説明に両親は気まずい顔をしながら視線を床に落とした。すると電話口で夫は意外な意見を言い始めた。
「聖と言う漢字を日本では『ひじり』と読むんだ。全国を旅しながら庶民の中で生きた坊さんのことだ。俺も世界を旅する人間だから似たようなもんだろう。だから我が子に聖と言う字を使うのは賛成だよ」夫の希望を聞きジアエは両親の顔を見たが内容が判らないのでは反応のしようがない。
「下の漢字は」「聖の字を俺の希望として下はそっちで決めてくれ」ジエアには夫の声が本音を言っているように聞こえた。岡倉としてはチベットで僧侶として死んだ村田2佐のイメージも重ねていたのだがジアエが知るはずはない。
「タイガーは何て言っていたんだ」「やっぱりこの間の日本人の名前が良いって」両親の質問にジアエは首を振る。そして両親が息を吸ったところで自分の意見も加えて発表した。
「セオングヤ(聖也)、ジャスト・セイントよ」この「グ」は発音せずに口の中で間を置くため「セオンヤ」に聞こえる。「李聖也」これなら全員の希望が叶った満場一致の名前だろう。

日本では「お七夜(初七日ではない)」「お宮参り(浄土真宗ではお寺詣り)」「お喰い初め」などの出産と成長を祝す行事があるが韓国では出産から100日目に盛大なお祝いを行う。それはキリスト教徒も佛教徒も変わりなく韓国人としての伝統的な儀式なのだ。
この日は親戚が祝いの品を持ち寄り、子供の披露目と祝宴を催すのだが、ジアエの父親は済州島での迫害を逃れてアメリカ人の神父に預けられて育ったためソウルには親戚はおらず、母親もすでに両親や兄弟を亡くしているので訪ねて来る者はいない。ただ師団司令部から法務官、連隊本部から同僚たちが駆けつけささやかな祝いの席になった。
「李大尉はチマチョゴリ姿も素敵だね」「うん、凛々しい軍服とは違った魅力がある」監理部の若手士官たちは主役の聖也を放っておいてジアエを肴に祝いの餅を頬張り始めた。100日目の祝いに清淨を表わす白の餅と邪気を祓う小豆餅(粉をかけて作る)を花や果物と一緒に祭壇に飾り、来客たちに振る舞う。そんな華やいだ雰囲気の中でも職場の人間たちは子供の父親の話題には触れられないようだ。すると法務官が中央のベビー椅子に座らされた聖也の顔を見ながら声をかけた。
「セオンヤ(聖也)くんは父親似だな。細い目と太い眉毛、立派な顎がそっくりだ」「そうですかァ、嬉しいです」法務官の言葉にジアエは満面の笑顔になる。その横で若手士官たちは驚いて顔を見合わせた。連隊では未婚の母になったカソリックの士官として非難を浴びても決して明かさなかった子供の父親を法務官は知っているのだ。しかし、好奇心だけで追求できる相手でなかった。
て・李英愛イメージ画像
  1. 2017/10/31(火) 09:52:30|
  2. 夜の連続小説8
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