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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ1009

聡美は入院中の夫・和也の病室を定位置にしている。本当は付添い用の仮眠ベッドで添寝したいのだが整形外科では重傷患者でもない限り、家族の宿泊は認められない。このためホテルの朝食の時間に出勤して仕事が一段落したところで病室に顔を出し、昼食の時間にはそこから出掛けて再び戻ってくる。夕食が終われば消灯まで夫婦の時間を過ごしていた。
「貴方、整形外科には食事制限がないから私の手料理を持ってきても良いんでしょう」「ううん、この間、看護師さんに訊いてみたんだけど衛生管理上、料理の持ち込みは認められないんだってさ」和也の答えに聡美は落胆した顔をした。病院の食事時間は調理員たちの出勤の都合もあって朝食は遅く、夕食は早い。おかずも食欲が弱った高齢者の好みを優先するため若い患者が多い整形外科では不評なのは確かだ。本当は聡美も自分の弁当を持ってきて夫婦水入らずの食事を楽しみたいのだが、3食とも出勤中なのでそれは無理だった。
「安川さん、これは奥さんも・・・丁度良かった」そこに担当医がカーテンを開けて顔を出した。どうやら手術の説明に来たようだ。
「実は手術室の順番が中々取れなくて予定よりも遅れているのですが、間もなく手術を受けると言う前提で説明させてもらいます」「はい」「はい」2人が声を揃えて返事をすると30代半ばくらいの担当医は何故か照れたように頬を緩めた。
「手術は膝蓋骨(しつがいこつ)を摘出して中の半月板の断裂部位を縫合するものです」「膝蓋骨?」「膝の皿のことだよ」難しい専門用語に聡美が首を傾げたので前もって聞いていた和也が説明した。
「膝の皿を取ってしまって大丈夫なんですか」「勿論、縫合が終われば元に戻します。靭帯などもそのままですから御心配には及びません」内臓疾患の手術では後で病状が悪化した時に責任を問われないために患者や家族を安心させる言葉を選ぶのだが、整形外科ではその点は無頓着なようだ。尤も、それは人々が逞しく大らかに生きている北海道の土地柄なのかも知れない。
「それで手術料の件なんですが、保険適用でも入院費とは別に10万円程度になります」思いがけない金額を聞いて若い夫婦は黙って顔を見合わせてしまった。先日は3万円の中古防具で軽い言い合いになったばかりだ。銃剣道と言うのは本当に出費がかさむ競技らしい。
「それは分割払いにできませんか」和也の質問に医師は少し困惑した顔をした。過去にも多くの自衛官が入院しているが治療費の支払いを渋った者はいない。共働きしているはずのこの夫婦が10万円の支払いに困る理由が判らなかった。和也はイラク派遣から戻って以来、結婚、聡美を同伴しての陸曹候補生への入校、冬季戦技教育の受講などが重なり、貯金はあまりないのだ。
「支払が困難であれば真駒内にある自衛隊札幌病院に転院すれば手術は無料のはずです。紹介状は書きますよ」この医師は危険を回避するための予防線を張り始める。近年、都市部の病院では救急搬送された患者が入院費を支払うことができずそのまま滞納する例が後絶たないのだ。流石に国家公務員である自衛官をそこまで疑わないが、個人の事情で支払えないことも十分に考えられる。
「貴方、こう言う時は共済組合で借りてそちらを分割払いにするものよ」「そうだな。そう言えば先輩が訓練中の事故で公務災害認定を受けて医療費が戻ってきたこともあったぞ」中隊先任陸曹の妻の教育を受けた聡美の助言に和也も別の事例を思い出して話をまとめた。
「そう言う訳でよろしくお願いします」若い夫婦の掛け合い漫才のような会話を聞いていた担当医は安堵したように微笑みながらうなずいた。

その頃、4中隊では東1尉と先任陸曹の間で静かなる激論が交わされていた。
「安川3曹の負傷を訓練上の事故にしないのですか」「折角、銃剣道の復活で盛り上がっている時に水を差すようなことを避けるのは常識だろう」着任以来、東1尉は10歳以上年長の先任陸曹を見下したような言葉づかいをしている。先任陸曹もそれに慣れようと努めているのだが、この上官の人間的な底の浅さを見るにつけ、怒りの炎が胸にチラつくようになっていた。
「しかし、それでは公務災害認定の手続きができません」「命じられた訓練を馬鹿にした陸曹の怪我を公務にする必要はない」東1尉は山下士長の一方的な主張を鵜呑みにしているようだ。
「それは本気で言っておられるんですか」無理に感情を押し殺した先任陸曹の低い声と険しい目に流石の東1尉も「ゴクリ」と音を立てて唾を呑んだ。
  1. 2017/11/15(水) 09:19:46|
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