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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

11月21日・日清戦争における旅順要塞攻略が始まって終わった。

明治27(1894)年の明日11月21日に日清戦争における旅順要塞攻略作戦が始まって1日で終わりました。
旅順要塞攻略と言うと日露戦争では明治37(1904)年8月19日から明治38(1905)年1月1日にわたり、日本軍側の戦死者は15400人、戦傷者は44000人、対するロシア軍は戦死・病死者は16000人(要塞内では伝染病が蔓延していた)、戦傷者は30000人を出した悲惨な消耗戦しか知られていませんが、こちらは大山巌大将の指揮によりわずか1日で終わっています。しかし、攻防両者の戦力を比べると日清戦争の日本軍は15000人、清軍は13000人で、日露戦争の日本軍が51000人、ロシア軍は陸・海軍とその他を合わせて62000人(ただし、旅順港に停泊中の極東艦隊の乗員を含んだ数字)だったので戦闘そのものは決して小規模な局地戦ではなかったようです。
確かに清国も朝鮮半島の付け根で満州の入口に位置し、西朝鮮湾と渤海の押さえである旅順の重要性は十分に認識しており、朝鮮王朝内で宗主国・清への忠誠を堅持する守旧派と日本を見習って近代化を図ろうとする改革派の対立が表面化した頃から要塞の建設を始めていたのですが、当時は西大后が政治の実権を握っていたため軍備よりも自分の隠居用の宮殿の建設と装飾や60歳の祝賀に予算を注ぎ込んでおり、不十分なまま開戦を迎えることになったのです。さらに兵力も数を揃えるために搔き集められた雑兵に過ぎず、開戦以来の連戦連敗に厭戦気分が蔓延しており、緒戦で苛烈な攻撃を受けると逃亡する者が続出して1日で決着がついたのは清国側の自滅に近いものでした。
ちなみに日露戦争の時の乃木第3軍の参謀長だった伊地知幸介少将は日清戦争の大山第2軍の参謀副長・中佐としてこの作戦に参加しており、ロシア軍が巨費を投じてヨーロッパの最新土木工事を施した要塞を過小評価して、同じ要領で攻略できると思い込んで正面攻撃を繰り返した結果、多大な損害を出したと言われています。
ところが問題は作戦終了後の占領下で起こりました。戦闘の模様を従軍取材していたイギリスとアメリカの大手新聞が「日本軍が占領地で捕虜や保護した女性や幼児を含む非戦闘員を劣悪な環境下で虐待しており、多くを殺害している」と報じたのです。これについては同じく従軍していた日本人記者も目撃しているので人数や手段については検証を要するものの事実としては誤報ではないようです。
現代の日本人は大山巌元帥と言えば晩年の太った肖像写真と日露戦争での泰然自若とした逸話などから悠揚な大器と言うイメージを抱きがちですが、若い頃には島津藩の過激分子に加わっており、殊更に戦いを好んで幕末の騒乱から戊辰戦争で島津藩が行った戦闘の大半に参加して、会津では冷酷無道な方法で藩士だけでなくその家族や城下の住民まで殺害したのです。さらに西南戦争でも他の島津藩出身者たちが西郷南洲翁とその側近たちと刃を交えることを躊躇する中、鎮圧軍を指揮して従兄の南洲翁以下の主要な人物を全て死に追いやっています。
実は戊辰戦争の時も欧米の新聞各社は従軍取材しており、恭順=降服している会津ほかの奥羽越列藩同盟を無理やり戦争に引き込んだ薩長土肥を批判する報道を行っていました。その先入観があってこのような報道になったのかも知れませんが、東郷平八郎大将が海戦法に基づいて清国の輸送船を撃沈したことで日本軍にも国際法を守る見識があることを証明していなければ戦争の勝利もあまり好意的には受け留められなかったでしょう。何にしても日露戦争の時に陸海軍首脳部が「武力紛争関係法の厳守」を繰り返し通達しなければならなくなった原因の1つなのは確かです。
  1. 2017/11/20(月) 08:55:33|
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