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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ1097

「すまん、君たちの話が耳に入ってしまってね」井上将補は敬礼の省略許可を周知されている会場で姿勢を正している3人に笑いかけながら立ち止まった。右手のグラスにはアメリカ軍側が用意した日本酒が半分入っている。
「佳織、こちらは」「ワシントンの日本大使館付防衛駐在官の井上将補よ」ライアン中佐が確認してきたので佳織が説明した。確かに井上将補は自己紹介させるには格が違い過ぎる。
「本間3佐、君の入隊動機を聞かせてもらったが、天安門事件で殺された恋人と知り合った経緯は何だったんだね」「はい、大学に入学して中学時代からやっていた少林寺拳法部に入ったら中国人なのに練習に励んでいる先輩がいて個人レッスンを受けるようになりました」「それが彼だったんだな」井上将補の理解に本間3佐はうなずいた。
「それでは護身術には自信があるね」「でも彼は4段でも撲殺されましたから3段では戦闘の役に立つかは判りません」この謙虚な態度はこの女性の中で何かが変わったことを実感させる。
「しかし、陸上自衛隊に入って彼の仇を取ろうとしたんだろう。もっと鍛えなきゃあ勝てないぞ」そう言って井上将補はグラスの日本酒を飲み干した。それを見て佳織は下士官クラブの給仕がバーテンダーになって酒を用意しているテーブルで井上将補と自分の日本酒を持ってきた。
「おっと2佐殿をホステスにしてしまったな」そんな冗談を言いながら井上将補はグラスを受け取る。しかし、これは自衛官としてよりも主婦の感覚での行動なのだ。
「天安門事件を入隊動機にしている君としてはチベット問題をどう考えているんだ」2人が再開した話を聞いていると井上将補の質問は本間3佐の面接試験になっているらしい。
「1年前に起きたラサでの騒乱については日本での報道があまりにも中国の発表の請け売りになっていましたからインターネットでも情報を収集しました。中でもアメリカで論争になっていた中国軍の兵士がチベット僧に扮して暴力を振るったと言う見解には私も賛成します」1年前と言えば本間3佐は某輸送大隊の中隊長でありながら陸士長と肉体関係を持ち、指揮官としての立場を汚していたはずだ。それがここまで真剣に国際情勢を注視していたとは驚くしかない。それは佳織の通訳を聞いたライアン中佐も同感だったようで表情を改めた。
「賛成する理由は」「僧侶の行動が軍隊的な規律によって統制されていたからです」この見解は夫とも一致する。つまり愛知大学の後輩は先輩と同等の頭脳の持ち主なのかも知れない。
「あの時、色々な動画映像が流れたが特に印象に残っているものはあるかね」「はい、狭い倉庫に押し込められた僧侶たちが投げ入れられたガス弾で窒息死する動画は、真偽を巡って激論になりましたが肯定する側の方が論理的に正しいようでした」ここで井上将補はグラスの日本酒を半分飲み、表情を引き締めて本間3佐の顔を見詰めた。
「君もそんな仕事に関わりたいと思わないか」井上将補は言葉の後に佳織を見て目で通訳を禁じた。しかし、ライアン中佐も自衛隊内の重要な話題であることを察したようで黙っている。
「そんな職務があるのなら是非」この答えで雑談の中の面接試験は終わったようだ。井上将補は急に笑顔になるとライアン中佐に声をかけた。
「この本間3佐が中国語に堪能なのは判ったが英語力は未確認だ。ここからの会話は英語にしよう」「イエス・サー」ライアン中佐が額に手を掲げて敬礼した時、アメリカ軍の宴会芸の定番である軍歌の大合唱が湧き起こった。
「レッツ、ザ アーミー ソング(陸軍歌を行くぞ)」先ずは陸軍からだ。会場の陸軍の固まりから陸軍歌「ザ アーミー ゴーズ ローリング アロング(陸軍は進んでゆく)」が始まった。
「マーチ アロング シング アワー ソング、ウィズ ザ アーミー オブ ザ フリー(行進しよう、歌おう 自由の陸軍と)・・・ウィア ザ アーミー アンド プラウディ プロクレイン(我らは誇らしく陸軍であることを宣言する)」拍手もまばらな内に次が始まった。
「スタンド ネーヴィー アウト ザ シー ファイト アワー バトル クライ(海軍は戦いの叫びを上げて海に乗り出す)・・・」これは有名な「アンカー アウィ(錨を上げて)」だ。
「・・・ソー ヴィシアウズ フォーズ ストレアー スカイ イェ イェ イェ(そうだ。邪悪なる敵は恐れ慄く)・・・」気がつくと本間3佐は海軍の「錨を上げて」まで英語で唄い、合いの手も入れている。これなら英語力も夫に引けを取らないようだ。それにしても足を開き腰に手をやって隊歌演習の姿勢なのは呆れる前に感心してしまう。
「ザ エアフォース ソング(空軍の歌)」空軍になれば空軍中佐の娘も黙っている訳にはいかない。佳織も苦笑している井上将補の前で隊歌演習の姿勢を取った。
「オフ ウィ ゴー イントゥ ザ ワイルド ブルー ヤンダー(さあ行こう、青い空の彼方へ)・・・」やはりこの妻にしてあの夫、似た者夫婦、破れ鍋に綴じ蓋なのだ。
  1. 2018/02/12(月) 00:20:04|
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