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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

2月15日・2足に金の草鞋を履いていた文豪・新田次郎の命日

昭和55(1980)年の明日2月15日は野僧も中学時代から愛読していた山岳・冒険小説の大家・新田次郎さんの命日です。67歳でした。
新田さんは熱烈な愛読者を持つ山岳や冒険小説に限らぬ極めて多くの傑作を残しているので文筆生活は長かったのだろうと想像してしまいますが、実は作家専業になったのは54歳の時で、それまでは中央気象台=現在の気象庁の技術者、それも富士山頂測候所の建設にも携わった第1人者だったのです。
新田さんは明治45(1912)年に長野県諏訪市で生まれました。ペンネームは実家があった集落の地名・角間新田(かくましんでん)と次男であったことから思いついたと言っています。地元の旧制中学校を卒業後は東京の電気系の上級学校へ進み、伯父に気象学者がいたことから中央気象台に入りました。なお入庁後に公費で電機学校を卒業しています。
27歳で女流作家と結婚しますが、当時は全国各地や離島などに測候所を建設していた時期であり、技術者として飛び回っていたようです。そして昭和18(1943)年に満州国の中央気象台に転任になり、ここで敗戦を迎え、中国共産党軍に抑留されることになりました。新田さん自身はこの経験を筆舌に尽し難い苦痛であったと述べていますが、ソ連軍にシベリアへ連行されるよりはまだ良かったのでしょう。
1年後に釈放されて帰国すると中央気象台に復職しますが、占領下での気象観測は連合軍によって運営されていたため中央気象台の職員は冷遇されおり、生活は困窮していたそうです。そんな中、奥さんが満州から引き揚げまでの経験を小説にして発表したところベストセラーになり、生活の大きな力になったことを目の当たりにした新田さんも文筆活動に強い関心を抱くようになりました。
昭和34(1959)年に東海地方などを襲った伊勢湾台風では情報不足によって甚大な被害を出し、その反省から富士山頂に高出力の気象レーダーを設置して広範囲を観測する計画が決定されました。新田さんはその技術責任者として設計から建設に至るまでを指揮し、その経験が後に小説「富士山頂」に結実しています。なお、富士山頂レーダーは当時、世界最大であり、新田さんは国際連合の気象学会で技術と経験を講演しています。
その一方で昭和31(1956)年には直木三十五賞を受賞するなど作家としても活動していて2足に金の草鞋を履いているような状態になっていました。ただし、この時期の作品は十分な取材ができなかったためなのか実話の記録と思わせるリアリティで登山者まで読者にしてしまう代表作のような迫力には欠けるようです。
このため定年まで6年を残して退職しますが、実は新田さんは登山愛好者ではなく「山岳小説家」と呼ばれることも大変に嫌っていたそうです。あのリアリズムは一流の登山家たちと長年にわたり親交を持ち、綿密な取材と調査を重ねた成果でした。
新田さんが自らの代表作と言っていたのは意外にも1988年のNHKの大河ドラマになった「武田信玄」で、亡くなったのも「武田勝頼」に続く「大久保長安」の執筆中でした。長野県人としての郷土愛は終生変わらなかったようです。
  1. 2018/02/14(水) 09:22:36|
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