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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

2月20日・教師も説明に困った郷土の偉人・村山魁多の命日

大正8(1919)年の明日2月20日は我が郷土・愛知県岡崎市出身の画家で詩人、おまけに小説まで書いた村山魁多さんの命日です。これだけ多彩な才能を発揮したのですからそれなりに長生きしたのかと思えばわずか22歳の生涯でした。
村上さんは明治29(1896)年に前述のように愛知県岡崎市(当時は額田郡岡崎町)で生まれました。母は東京の森鴎外さんの家で女中勤めをしており、知り合った男=父との間に子供ができたため臨月になってから岡崎市の実家に戻り、婚姻届を出して2週間後に出産したのだそうです。母が帰郷することが決まった時、森さんは餞別として子供の名前を贈ってくれたので「魁多」は本名なのです。
翌年には高知県に移住し、さらに4歳の時には京都市へ転居したためここで教育を受けることになりました。13歳の時、母方の従兄の版画家で西洋画家の山本鼎さんから油絵のセットをもらったことで美術に目覚めますが、同時にボードレールやエドガー・アランボーなどのデカダン(=退廃)的作家の小説を読み耽り、さらに15歳の頃には詩を作って同好の友人たちと回覧雑誌にしていたようです。
この頃の詩は「血染めのラッパ吹き鳴らせ 耽美の風は濃く薄く われらの胸にせまるなり」と強烈な言葉を用いており、後の絵画に通じる激しさを感じさせます。なお。この回覧雑誌に発表した作品は村上さん没後の大正10(1921)年に「魁多の歌へる」と言う詩集になり、芥川龍之介さんや室生犀星さんに絶賛されました。
旧制中学校を卒業した15歳の夏に上京すると田端に住んでいた洋画家の小杉未醒さんの家に寄宿しながら日本美術院研究所に通い始め、小杉さんの娘をモデルに描いた作品を二科会展に出品して入賞、翌年には日本美術院展に同様の作品を出品して院賞を受けています。その後も毎年入賞を重ねていきますが、画家として活動したのは5年弱なので回数は4回に留まっています。
村上さんの作品は「炎の人」と称されるヴァン・ゴッホと同様に激情をキャンパスに描き殴っているような画風で、色彩は原色を多用しながらも深く、特に「ガランス」と呼ばれる血のような赤は鮮烈です。
この頃には絵画だけでなく小説の執筆にも取り組んでおり、多くは未完でしたが「悪魔の舌」と言う幻想怪奇小説は高い評価を受けているそうです(野僧は読んでいません)。
こんな激烈で破滅的な村上さんの生き方を親交があった高村光太郎さんは「強くて悲しい 火だるま魁多」と評しました。
大正7(1918)年4月に結核性肺炎を発症すると「私は落ちゆく事がその命でありました(中略)たとえ此の生が小生の罪でないにしろ 私は地獄へ堕ちるでしゃう(中略)さらば」との遺書をしたため、燃え尽きるように作品を描き続けたのです。そして当時、大流行していたスペイン風邪に罹患するとその高熱に浮かされたのか、霙(みぞれ)交じりの強風が吹く屋外に飛び出して畑に倒れているところを発見されました。
教師は村上さんを紹介した後、何時ものように「こんな人になれ」とは言いませんでした。
  1. 2018/02/19(月) 10:10:56|
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