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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ1108

「ところで今田(こんだ)くんは日本で演技学校に通ってきたのか」今田への任務の説明が終わったところで工藤が確認した。岡倉たちは情報要員として選抜されるとそのままアメリカへ赴任させられて実務の見習いと修習が同時進行だったが、今田はかなり出遅れているだけにいきなり実戦投入しなければならない。ただし、相手は情報戦の本家・家元の中国だけに失敗は許されないのも確かだ。工藤の質問に今田は何故か表情を緩めてうなずいた。
「実は大学時代、落研(おちけん=落語研究会)にも入っていましたから演技の基礎的な指導は受けています」「ふーん、異色の経歴だな」「落語は1人で何役も演じ分けるから舞台俳優の養成所よりも使えるかも知れないぞ」「問題は大学の落研のレベルがどこまで本格的なのかだ」今田の一言に男4人はそれぞれの見解を述べ合う。やはり可憐でなくても花一輪を愛でる気持ちは失っていないようだ。
「ウチの大学の落研が名古屋の高座で発表会を開くとキンチャンが波打ってました」「キンチャンとは?」「お客のことです」この新入りは世代だけでなく経歴でも理解不能だ。そこで4人のプロたちは今田の大学に話題を誘導し、中国語を学んだことを告白させた。
「愛知県で本格的に中国語を学べる大学と言えば愛大だな」岐阜県出身の岡倉の指摘に今田は驚いたように絶句した。個人情報は極力隠蔽しなければならないことを工藤から指導されており、だから本名も伏せているのだ。つまり自分の保全に漏れがあったことになる。ところが岡倉は自然体で追い討ちを掛けてきた。
「人民の新しき朝の光は 2つなき真理の下に明け放たれり 人類の類(たぐい)なき知を愛する者よ 今こそ固く腕(かいな)組みて 澎湃(ほうはい)寄する東海の潮(うしお)の如く 高らかに 高らかに 我等が愛知大学の名を称えよ」低い声で愛知大学の学生歌の1番を唄い切ったのだ。しかも出だしは左翼系の学生の替え歌だ。これは何を意味しているのか。今田は完全に混乱してしまった。
「島村くん、見習いさんを鍛えるのはそれぐらいにしておきなさい」「要するに愛知大学出身の知人がいると言いたいんだな」「不用意に個人情報を漏らせば即座に武器に使われて自分に向かってくるって言う教えですね」男3人の援護を受けて今田は溜め息をついた後にうなだれた。そんな様子を見て再び男たちは手を差し伸べる。今度は岡倉も加わった。
「我々は存在すること自体が最上級の防衛秘密に属する。だからプロの推理によってでも個人を特定できる情報は漏らしてはならないんだ」やはり工藤が口火を切る。
「身元不明で死ねなければ何をやってでも生き抜くことだ」村田の死に共鳴している松本はその後任である今田に同じ死を迎えさせたくはないと願っている。
「別人を演じるだけでなく別の人格を完全に自分のモノにする。そうすれば自白剤を投与されてもそのまましか語ることはない」これはイギリスで自白剤の実験に立ち合った杉本だ。
「君はまだ今田菊子と言う人格を作り上げていない。別に今田が愛知大学出身でも良いんだ。それには大学の卒業生名簿を調べられないように強固な予防線を張ることが前提になる」岡倉の言葉に今田は目の前に座っている男たちの顔を1人1人注視し始めた。今、ここにいる人物は日本の戸籍とは別の氏名を名乗り、経歴を作り上げている。ワシントンで井上将補から「今田菊子」のパスポートを渡されたが、今後はその偽名で海外に赴き、活動中に殺害、負傷、逮捕、拉致されてもその偽名で死に、治療を受け、取り調べられ、監禁されるのだ。

翌日、岡倉は試運転に今田を国務省へ同行させた。このような時は流石にパンツ・スーツ姿だ。
アムトラックの高速鉄道・アセラでニューヨークのペンシルバニア駅を発ち、3時間弱でワシントンのユニオン駅に着く。日本で言えば新幹線で東京から新大阪まで行くような感じだ。
「意外に快適な乗り心地ですね」この区間のアセラの料金は往復98ドルで新幹線よりもかなり格安だが、座席はアメリカ人サイズでゆったりしており、足も伸ばせて快適だ。
「うん、俺は1日おきに利用しているが、今では貴重な読書の時間だよ」車内では表立って盗聴器や隠しカメラの存在を確認できないため会話は日本語にしている。ワシントン・D・Cの人種別の構成ではアフリカ系が過半数、ヨーロッパ系が35・5パーセント、ヒスパニック系が約10パーセント、ネイティブを除くアジア系は3・8パーセントに過ぎないのでそれに比例して乗客にもアジア人は少ないから警戒も容易なのだ。
「俺もデパートメント・オブ・ステート(国務省)の取材パスは持っていないから知人への面会になる。今日はそのつもりで行動しろ」「はい」今田は小さくうなずくと窓の外に視線を移し、胸の中で雑誌記者の島村に同行する「今田菊子」と言う人格を組み立て始めた。
  1. 2018/02/23(金) 09:29:47|
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