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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

2月26日・2・26事件で渡辺錠太郎大将が殺害された。

昭和11(1936)年に起きた2・26事件で陸軍教育総監だった渡辺錠太郎大将が私邸を襲撃され、9歳の娘の面前で機関銃の連射を浴びて死亡しました。
昭和に入って以降、第1次世界大戦後のヨーロッパから波及した厭戦と軍縮の気運によって圧迫を受けていた帝国陸海軍、特に山口県人が作った陸軍は吉田松陰の狂気を信奉した門弟たちが反対者を暗殺することで毛利藩内の主導権を握り、公武合体を進める孝明天皇も暗殺して年少の明治天皇を担ぎ出すことで戊辰戦争を起こし、それによって国家を手に入れたのと同じ手法で巻き返しを図ろうとしていました。
陸軍内では吉田松陰の狂気を継承する皇道派と現実主義者の統制派に分かれて内部抗争を繰り広げていたのですが、犬養毅内閣の陸軍大臣に就任していた皇道派の首魁・荒木貞夫大将が病気を理由に辞職すると後任には同列と目されていた林銑十郎大将が就任したものの時代錯誤の皇道派には見切りをつけて統制派を軍中枢に抜擢し始めたのです。これに教育総監になっていた荒木の子分・真崎甚三郎大将が反対すると林陸相は皇族の閑院宮参謀総長の同意を得た上で真崎を更迭し、後任には渡辺大将が就任しました。
渡辺大将と真崎大将の確執は後任に座ったことを「自分を追い落とした」と一方的に邪推したことに始まり、クーデター未遂の「三月事件」を審査する会議の席で真崎大将が機密文書を提出して「クーデターの首魁は永田軍務局長である」と追及したのに対して渡辺大将が「何故、軍事参議官に過ぎない真崎大将が機密文書を私的に持っているのか」と指摘してこの主張を否定したことで決定的になりました。尤も、渡辺大将は当時の陸軍切っての常識人であり、無派閥でもあったので真崎大将の勝手な逆恨みと嫌悪だったようです。
しかし、真崎大将は自宅に集まって宴を繰り広げる陸軍士官学校長時代の教え子たちに自分の処遇の不満を交えた統制派への敵意を煽り立てており、この会議でのやり取りも「渡辺は統制派の陰の本尊だ」と断定して襲撃目標に加えさせました。
渡辺大将は現在の愛知県小牧市の煙草製造販売業者の息子で家庭が困窮していたため尋常小学校を中退し、元々が医師志望だったこともあり「看護卒になりたい」と軍隊を志願した苦労人です。しかも清廉潔白で温厚篤実、頭脳明晰な読書家のインテリだったため権力志向は持ち合わせておらず、決起将校たちが「君側の奸」として人選した首相や内大臣、侍従長の海軍大将たちや高橋是清大蔵大臣、牧野伸顕伯爵とは別種の立場であり、真崎大将の画策・扇動以外に標的にされる理由が見つかりません。
この日、2名の少尉が指揮する30名の兵士に襲撃された渡辺大将は覚悟を決めて一緒に寝ていた9歳の次女を部屋の隅に押しやると畳の上に伏せて拳銃を構えたそうです。ところが襲撃部隊は襖越しに機関銃を乱射したため肉片が飛び散り、骨が露出するような状態になって即死したようです。他の襲撃ではこれほど過剰な殺害方法は採っておらず、何故、ここまでやったのか全く理解できません。
野僧は第5術科学校に入校中、小牧市内の渡辺大将の足跡を訪ね歩きましたが、若し存命であれば開戦・滅亡に到る道程で大きな役割を果たしたかも知れず本当に残念です。
  1. 2018/02/25(日) 09:33:36|
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