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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

2月28日・新田次郎作「芙蓉の人」の主人公・野中到の命日

昭和30(1955)年の明日2月28日は日清戦争が終わった明治28(1895)年に富士山頂の測候所を開設し、そこに夫を気遣う妻が合流して厳寒の中で観測を続けたことで国民の感動を呼び、新田次郎さんの「芙蓉の人」を代表とする多くの小説や映画などに描かれた野中到(いたる・至はペンネーム)さんの命日です。88歳の長命でした。
野中さんは幕末の慶応3(1867)年に福岡・黒田藩士の子として生まれ、学問で身を立てるべく上京して帝国大学予備門に入学しますが、気象学に強い関心を持って中退してしまいました。普通であれば帝国大学で本格的に学び、さらに海外留学の道を探れば良いと思うのですが、この頃にはまだ公的機関による高山や離島の気象観測は始まっておらず、研究者が個人で記録を取っていたのです。ただ、野中さんは「思いついたら即実行」の性格だったようで、それは後年の富士山頂への測候所開設と越冬にも表れています。
この頃の気象観測は研究者が地点を定めて時折、出向いて温度や湿度、風向と風速、気圧や降雨量などを測定するだけで富士山頂では春から秋にかけて火口外輪の北東部にある久須志神社の洞穴に野営しながら行われていただけでした。
そんな現状を憂いた(=に目をつけた?)野中さんは富士山頂に測候所を開設して通年観測を実行することを決意し、明治28(1895)年2月の厳寒期の富士登頂に成功すると自信を深め、資金を集めると夏に再び登頂して火口外輪の西側の最高点・剣ヶ峰に約6坪の測候所を建設したのです。剣ヶ峰は富士山頂の中で最も強風に晒され、厳寒に見舞われる場所なのですが、野中さんは「風が弱いところは積雪が多く観測に支障が出る。だから最も風が強い場所を選んだ」と言っています。しかし、資金が不十分な上、人力以外に建設資材の運搬手段がなかった時代では測候所の防寒対策は不十分になるのは判り切っていたことで、研究者としての論理だけでこのような過酷な場所を選んだことは「些か軽率だったのではないか」と断ぜざるを得ません。何はともあれ思いついたら即実行の野中さんは9月に1度下山して食糧や燃料などを調達すると閉山になった10月に登頂し、越冬観測を開始したのです。
そこまで思うままに暴走するのですから野中さんは独身だったのかと思えば予備門を中退した3年後に母方の従妹である女性と結婚していました。この妻は黒田藩お抱えの能楽師の娘だけに中々のな美人でした。その妻が10月半ばに登頂してきて「一緒に越冬する」と言い出したのです。当然、野中さんは禁じましたが妻の意思は固く、最後は押し切られる形で夫婦での越冬になりました。ところが12月頃から高山病と栄養不良によって体調が悪化して歩行困難に陥り(脚気と診断されている)、この頃に慰問に登頂した実弟によって発見され、12月22日に療養のため下山したのです。
この出来事は昭和23(1948)年と同42(1967)年に「富士山頂」と言う映画になりましたが昭和45(1970)年の富士山頂レーダー建設を描いた同名作品と混同してしまいます(野僧も文化祭で上映する時の解説を間違えました)。ちなみに新田さんの「芙蓉の人」は昭和46(1971)年に初刊が出版されました。
  1. 2018/02/27(火) 09:34:46|
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