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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

第71回月刊「宗教」講座・カソリックの大罪「異端審問」「魔女狩り」

日本人にとってカソリックはバチカン市国のサンピエトロ大聖堂に君臨するローマ法皇を頂点とする巨大教団であり、その伝統と格式に無条件の敬意を抱いてしまうようです。さらに室町時代後期から安土桃山時代までは地球を半周する長旅を遂げて来日する宣教師たちがもたらす海外情報や物品に心躍らせた後は、天下統一を目前にした羽柴秀吉が宣教師たちの帝国主義の先兵である実像を喝破したことで禁教と弾圧に転ずると棄教を拒んで殉教した信者たちを悲劇の主人公に祭り上げてしまいました。ところが実際は九州を中心に殉教した切支丹よりも北陸や近畿、東海地方の一向一揆で死亡した門徒の方が遙かに多く、「自分たちだけが悲劇の主人公である」と喧伝するのは歴史の歪曲に他なりません。実際、日本では悲劇の主人公を演じているカソリックも大航海時代には欧州列強が世界各地に上陸して原住民の伝統文化を破壊し、宝物から食糧、資源までも奪取する侵略と暴力に「邪教を信ずる哀れな者たちに正しきキリスト教を広める」と言う口実を与えており、ヨーロッパ圏内では「異端審問」とそれに続く「魔女裁判」と言う暗黒社会をもたらしていました。かつては「異端審問」と「魔女狩り」は同一視されていましたが近年の研究の進展によって両者の差異が解明されたことで両者を区分して解説されるようになっています。しかし、異教徒の目で見るとカソリックが教団として犯した大罪を軽くするため無理に分離したようにしか思われません。
「異端審問」は史実として確認されているだけでも今から約千年前のヨーロッパで始まっており、カソリックの正統な教義に反する信仰を「異端」としてその疑いを持たれた者を審査する制度でした。一方、「魔女狩り」は十五世紀頃からカソリックに限らずキリスト教のカミではない存在を信仰する者を発見し、改宗を迫り、応じなければ残酷に弾圧する狂気=集団ヒステリーとしています。つまり時代背景や起こった地域の違いよりも前者はカミへの信仰形態の可否であるのに対して後者はカミではない対象を信仰している点が本質的な相違点とのことです。初期のキリスト教では佛教で釋尊入滅後にその教義を確定するために行われた結集(けつじゅう)と同様に使徒たちの間で盛んに神学論争が戦わされ、それが各地に伝播して独自の発展を遂げて行っていたのですが、ローマ帝国のコンスタンティヌス帝はキリスト教の中でもカソリックを公認して国教としたことで国家存立の正当性を保証する根拠としました。そうして神聖になったローマ帝国が周辺地域に版図を広げていくと各地で発展していたキリスト教とカソリックとの教義・作法の違いが問題になり、軍事力では屈服しても信仰では正当性を主張するようになったのです。これに支配を揺るがす危険性を感じ取ったローマ皇帝はバチカンに対して教義の論理的確立と並行して異端者の摘発を要請しました。その最初期の記録が1022年にフランスのオルレアンで行われた異端審問です。この時は十数名が捕縛され、フランス王の命により火刑に処せられたとされていますが、当時のヨーロッパでは現世の刑罰権は国王・領主に属し、バチカンから派遣されている司教などの聖職者は異端者と断定してもそれを報告するまででした。それでもこの火刑の噂が広まると他の国王や領主が異端審問を権力と権威の維持に利用しようとしたため各地に波及することになったのです。その後、神聖ローマ帝国の版図が十字軍の遠征によって地中海を取り巻くように拡大すると各地で定着・発展していたキリスト教派との間で神学論争が再燃し、時にはカソリック側が論破される事態も発生したため、皇帝や国王・領主は聖職者による教義の審問だけでなく拷問などによる弾圧を加えるようになってしまいました。さらにフランス南部のアルビ(カタリ)派とヴァルド派を異端と断定したことで1209年から始まったアルビジョア十字軍による制圧を経て異端審問所が開設されると現地の司教などではなくバチカンから派遣された専従の審問官が捜査から審問を一手に行うようになり、その成果が評価されたことで北フランス、スペイン、オーストリアなどにも続々と設置され、ヨーロッパの中世を暗黒で覆うことになったのです。なお、審問官にはカソリックの中でも特に戒律を厳格に守っているドミニコ会から選抜されることが多かったようです。そんな中、イベリア半島では15世紀末期になってスペインの王とカスティリアの女王が結婚したことで連合王国が成立すると対岸のモロッコからの侵略などによって国内に多数存在していたイスラム教徒や地中海の海路で移民していたユダヤ教徒が脅威になっていきました。このためスペイン王はバチカンに対して独自の異端審問所の設置を求めたのです。当初、教皇は聖職者の手を離れた異端審問が政治目的に利用されることを危惧して認めなかったのですが、スペイン王の恫喝に屈して許可を与えてしまいました。その結果、スペインではカソリックに改宗している移民たちを過酷な取り調べで異端と断定し、多くの刑死者を出すことになりました。なお、スペインの異端審問制度が廃止されたのは1834年になってからです。また1542年に教皇がお膝元であるローマに設置した異端審問所はバチカンから派遣される審問官ではなく神学者や博識な枢機卿たちによって運営され、当初は個人の審問を行ったものの間もなくその高い知性と教養を活用するため文書の審査とヨーロッパ各地の異端審問所や派遣されている審問官の監査を担当するようになりました。その中でもっとも有名なのはガリレオ・ガリレイの地動説に関する著書を巡る審問ですが、文書の審査はイタリア国内で発行されたものに限られていたため地動説を最初に提唱したポーランドのカソリック司祭・ニコラウス・コペルニクスの「コメンタリオルス」や「天体の回転について」は対象外でした。ちなみにポーランド人のローマ教皇・ヨハネ・パウロ2世がガリレオの異端審問の誤りを認めて名誉を回復したのは1983年5月9日になってからです。勿論、自分たちの真摯な信仰を一方的に異端と断定された人々の怒りは凄まじく、中でもアルビジョア十字軍の侵攻を受けたアルビでは異端審問後にカソリックの司教と住民の抗争が繰り広げられましたが、最終的にはカソリックが絶対的権威によって支配者力を動かし、軍事と政治、さらに経済の圧迫によって鎮圧されたようです。
そんなカソリックの専横がヨーロッパを覆い尽くしていった結果、自然発生的に始まり、15世紀から18世紀の間に4万人から6万人が処刑・拷問死したとされている宗教に名を借りた少数派の弾圧・迫害が「魔女狩り」です。ただし、「魔女」と言うのは日本語の誤訳で対象者に性別は関係なかったようです。中世のヨーロッパでは神聖ローマ帝国が国教と定めたカソリックが広大な支配地域内の共通の倫理規範となり、信仰と硬直した戒律が強要されるようになりました。そんなカソリックが異端審問を始めると庶民レベルでも異端者を摘発し、裁判にかける動きが出てくるのは自然な成り行きでした。当初は異端審問所に告発し、専門家の手に委ねていたのですが、庶民の勝手な思い込みで疑われた人間を宗教的に審問しても異端と判断されない事例が相次ぎ、次第に領主などによる犯罪者の裁判に持ち込まれるようになったのです。当時の裁判では拷問による自白が最高の証拠であり、「信仰」と言う心情の問題を罪と認めさせるために極限まで苦痛を与える器具が開発され、それによって無実の人々が命を落とす結果になりました。魔女と言うと鼻の先が下がった痩せた顔で頭巾がついた黒いユッタリとした服を着て杖をついた老女のイメージですが、これは当時のヨーロッパに流入しながら市民社会から疎外されていたユダヤ人のものです。今でこそヨーロッパは最先端の科学技術でアメリカやロシアと熾烈な開発競争を繰り広げていますが、中世には陸路のシルクロードと地中海やインド洋の航路を通じてヨーロッパだけでなく中国やインド、アフリカとも交流を持っていた中東の方が先進地帯で、そんな土地から流れてきたユダヤ人たちは医術=薬学や占星術などを用いて庶民の病気を治療し、運勢を占って生活していたのです。ところが治療の甲斐なく患者が死ねば恨みを買い、法外な対価を請求することも珍しくなかったため快復させても嫌われ、さらに蓄財によって贅沢な生活を送るようになると妬みも加わって中世の閉鎖的な社会の中で孤立していきました。おまけに領主としても財産没収が期待できるのでユダヤ教と言う異教徒であることを理由に告発されれば結果は始めから判っていました。一度、この方法で目障りな人間を抹殺できることを学習すると庶民たちは手当たり次第に乱用するようになり、集団ヒステリーの捌け口として次々と魔女が告発され、殺されていきました。それでも「魔女狩り」には宗教的な根拠があって、それは旧約聖書の出エジプト記の22章18節の「呪術を行う女を生かしておいてはならない」で、ユダヤ人が生業に用いる医術や薬学、占星術などはこれに当たりました。「魔女狩り」で残酷な拷問が行われていたことは有名ですが、代表的な拷問器具としては「拷問台=RUCK」と言う物がありました。これは単なる台ではなく、台の両端に丸太が据え付けてあり、これに縄をつなげて被疑者の手足を縛るのです。こうして尋問が始まり、被疑者が罪を認めないと執行人が丸太を回し、縄が巻かれることで手足が引き延ばされ、やがては千切れてしまうと言う恐ろしい物でした。勿論、大半の被疑者は途中で罪を告白するのですが、中には聾唖者が魔女との嫌疑を受けていることがあり、不自由な口で必死に無実を訴え、続いて頭を振って罪を認めても許されず、ついには生きたまま手足が千切れると言う悲惨な結果に至った例が当時の審問官の記録に残っています。この応用として不倫の疑いをもたれた女性には両足を開き、性器を露出すると言う肉体的苦痛だけでなく羞恥心も踏み躙る拷問台も考案されました。これも股間が180度以上に開かれて脱臼した後、結局は千切れたようです。不倫を疑われた女性には「苦痛の梨(Pear of Angulish)」と言う器具もあり、これは性器や口の中に西洋梨の形をした器具を突っ込み、ヘタの部分のネジを回すと挿入した実が開いて膣を押し開き、やがては引き裂いてしまうのです。さらに「頭蓋骨粉砕機(Head Crusher)」と言う物は頭を半円形の金具で固定し、上のネジを回すと次第に下がり、やがては粉砕してしまうのですが、実際は頭蓋骨よりも先に下顎が折れてしまったようです。中でも有名なのは「鉄の処女(Iron Maiden)」でしょう。これは扉に清らかな少女の全身像を浮き彫りした長方形の大きな箱で、底と扉の内側には刃が設置されていました。この箱を立てて被疑者を入れ、扉を閉めるのですが、刃の位置は人体の急所を外してあり、刃の長さも致命傷にならないように調整されていたのです。つまり被疑者には恐怖と苦痛のみを与え、楽には殺さない画期的な発明だったようです。ただし、実際に使用されたのかには疑問が呈されています。ちなみにヨーロッパでネジが発達したのはこの拷問器具への利用が理由と言う奇説もありますが、それほど大量生産を行った訳ではないので単なる邪推でしょう。しかし、魔女の裁判で一般的に行われていたのは水裁判でした。これは「魔女は魔物に仕えているため危険な目に遭えば必ず救われる」と言う詭弁に基づいて、被疑者の手足を縛った上で水に投げ込むとものです。つまり溺死すれば無実として教会で葬儀が行われ、浮かび上がれば魔女として処刑される言う無茶苦茶な裁判でした。この集団ヒステリーをドイツ北部ラインラントの神学者で「魔女狩り」に初めて明確に反対したフリートリヒ・シュペー・フォン・ランゲンフェルト(1591年~1631年)は「魔女が告白しようとしまいと結果は同じだ。自白すれば有罪で処刑である。自白しなければ拷問の繰り返しである。拷問の時間の長さも回数も無制限である。実際、魔女には実の証を立てるすべは全くない」と批判しています。ただし、「魔女狩り」はバチカンが命じた宗教活動ではないため各地域で格差があり、ドイツやフランス、イタリア、スウェーデン、スペインなどのカソリックの組織が強固で国王や領主の信仰心が篤い土地では比較的常識な裁判が行われ、刑罰も鞭打ちなどで済ましていることが多いのですが、弱小国では前述のような過激な残虐行為に発展することが多かったようです。意外にもスイスではフランス、ドイツ、イタリア系住民の対立と不信を背景に過酷を極めたと言われ、逆にスペインでは過酷な「異端審問」が行われた割に「魔女狩り」は発生しなかったとされています。
問題なのはヨーロッパでは未だに形を変えた「魔女狩り」が継承されていることです。「魔女狩り」は個性を尊重する人権意識の萌芽・成長によって終息しましたが、現代ではその「人権」がキリスト教的な唯一絶対の正義と化して、個よりも和を尊重する他宗教の道徳を頭から否定し、国際会議と言う「異端審問」で一方的に批判する「魔女狩り」を繰り広げています。そもそもバチカンはガリレオの地動説に関する「異端審問」と「魔女狩り」に対しては過ちを認めていますが、その他の悪事については教団が犯した大罪を認めていないのです。幕末・明治になって日本に入ってきたカソリックはそんな暗黒時代を経て近代化した教団でしたが、変わらぬ実態を見誤ってはなりません。
71a・拷問台(Ruck)71b・苦痛の梨(Pear of Angulish)71c・頭蓋骨粉砕機(Head Crusher)71d・鉄の処女(Iron Maiden)
左から拷問台(Ruck)・苦痛の梨(Pear of Angulish)・頭蓋骨粉砕機(Head Crusher)・鉄の処女(Iron Maiden)
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  1. 2018/10/01(月) 10:01:04|
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