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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

10月10日・「葉隠」の口述者・山本常朝の命日

享保4(1719)年の明日10月10日(太陰暦)は武士道の教範として密かに鍋島藩士に筆写されてきた「葉隠」の口述者である山本常朝(つねとも)さん=旭山常朝(きょくさんじょうちょう)和尚の命日です。61歳でした。
ここで口述者と断らなければならないのは「葉隠」は鍋島藩士・田代陣基(つらもと)さんが出家・隠棲している常朝和尚を訪ねて質疑応答を交わした内容を記述した書物であり、実際、全編を通じて「聞書(もんしょ=聞き書き)第××」と項目立てしています。
また「武士道を説いた哲学書」と評されることが一般的ですが、自衛官の生活規範として全編を熟読していた野僧としては「主君に仕える上での心得・心構えの解説書」と見るべきだと考えています。
そんな「葉隠」は冒頭の「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」の一句があまりにも強烈なため闇雲に死を追い求める狂気の教えと誤解され、特に第2次世界大戦末期には組織的自死行為である特別攻撃隊の隊員や本土決戦に向けて国民に玉砕=全滅を覚悟させるための精神教育の常套句にされましたが、全編を熟読すると「自己にこそ厳格な日本人の倫理観」を周知した名著として世界で高く評価された盛岡・南部藩士である新渡戸稲造さんの「武士道」と同一の基盤に立っていることが判ります。
常朝和尚は聞書第二で自分の生い立ちを語っており、それによると父が70歳の時に生まれた次男でしたが病弱だったため海に流そうとしたものの父の上役に「貴殿の血を受け継いでのだから必ずお役に立つ」と諌めた上で名付け親になってくれたため何とか生き存(ながら)えることができたようです。9歳で藩主・鍋島光茂公の小僧(小姓の小間使い)になり、11歳で父が病没したため(当時としては超長命の81歳)そのまま召し使われ、20歳で元服して御書物役手伝いに取り立てられました。この間、甥(父の兄の孫)に当たる20歳年長の親族の厳しい薫陶を受けたようです。
ところが若殿である綱茂公の和歌の相手をしていることが光茂公の逆鱗に触れ(おそらく自分の子飼いだと思っていた常朝さんが息子にも手懐けられたことへの嫉妬)、無期限停職になってしまいました。しかし、常朝さんは時間を無駄にはせず佐賀城下の高伝寺の湛然梁重和尚に参禅し、鈴木正三和尚直伝の勇猛禅を修学して血脈(佛法の継承)を受け、生前葬を行って旭山常朝の僧号を与えられたのです。さらに脊振山麓に隠棲していた儒学者・石田一鼎(いってい)さんの教えを受けて学問を究めていきました。
24歳で停職を解かれると御書物役に昇任し、その後は江戸や京都の藩邸勤めを歴任して33歳まで帰郷できませんでした。42歳の時に光茂公が亡くなると「30年以上仕えた主君」への殉死を願いましたが「追い腹」禁止の藩命が出ていたため諦めて隠居し、正式に得度を受けて長い余生としての隠棲生活を送っていたのです。
そこに田代さんが訪ねて来て教えを乞いましたが、始めは頑なに拒否したものの武士の気風が廃れている現状を訴えられてようやく質問に答えるようになり、こうして遷化の3年前に全11巻からなる「葉隠」が完成したのです。
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  1. 2018/10/08(月) 09:31:59|
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