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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

10月20日・敗戦後の偉大なる宰相・吉田茂の命日

昭和42(1967)年の10月20日は敗戦後、占領軍を相手に卓越した国内外交を展開した偉大なる宰相・吉田茂総理の命日です。89歳でした。
吉田総理は高知県出身と言うことになっていますが(戦後は選挙区で選定する)、実際は父親が土佐藩士であったこと以外はあまり縁がなく母親は長崎の芸者であり、明治11(1878)年に父親が反政府謀議の嫌疑で投獄されたため逃れた東京で生まれています。
生まれて間もなく父親の親友で旧福井藩士の吉田家の養子になりましたが、養母は幕府の御用儒学者の娘であり、武士の子として厳格に躾けられたようです。ところが11歳の時に養父が40歳で早逝したためアメリカの貿易会社の横浜支社長として築き上げていた莫大な資産を相続することになり、この辺りで後年、「貴族趣味」と揶揄されることになる庶民感覚から外れた独特の生活形態を身につけたのかも知れません。
そんな富豪少年であったため勉学は自由奔放で、高等商業学校(現在の一橋大学)に入りながらも「商人は性に合わない」と退学し、慶応義塾や東京物理学校(現在の東京理科大学)も同様に中退して、結局、学習院の高等科・大学科に進みました。ところが大学科が閉鎖されたため無試験で東京帝国大学法科に編入して日露戦争が終わった翌年の明治39(1906)年に卒業しています。卒業後は志望通り外交官になりましたが任地は満州でした。吉田総理と言うと「軍隊嫌い」の印象が強いため満州でも軍の暴走を抑える役柄を演じたと思ってしまいますが、実際は軍人以上の強硬派で後の満州国樹立につながる「満蒙分離論」を主張していました。ところが欧州情勢については第1次世界大戦の敗戦から立ち直りつつあったドイツに対しては強い警戒感を持っていて英米との外交調整と同時進行での満州の支配権の確保を模索していたようです。
その後、昭和3(1928)年に田中義一内閣の外務次官を務め、昭和5(1930)年にイタリア大使、昭和11(1936)年からはイギリス大使に就任しています。イギリスではナチス・ドイツに心酔する大島浩大使の過大宣伝を訂正する報告を送って日独伊三国軍事同盟の阻止に努力しましたが力及ばず、昭和15(1940)年に同盟が締結されたのを受けて帰国すると外務省を退官して政界に活躍の場を移しました。昭和20(1945)年4月には近衛文麿元首相などとの終戦工作が露見して特高警察に拘束されましたが、これが敗戦後に「反軍国主義者」としての身分証明になったのです。
敗戦後は東久彌宮内閣、幣原内閣の外務大臣を務め、昭和21(1946)年5月から先ず1年間の政権を担いますが日本国憲法の制定に伴う選挙で第一党の座を社会党に奪われたため下野して政権の混乱を傍観しながら昭和23(1948)年10月には政権への復帰を果たし、昭和29(1954)年12月まで長期政権を維持しました。
吉田総理の偉大さは新聞や学者たちがソ連や共産党政権の中国を含めた「全面」講和を扇動する中、昭和27(1952)年に実際は当時の国連加盟国60カ国の大多数である49カ国が署名したサンフランシスコ講和条約の締結に踏み切ったことです。さらに同日に調印した日米安全保障条約には次代の政治家に傷をつけないため単独で署名しています。
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  1. 2018/10/19(金) 10:02:53|
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