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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

10月25日・帝国海軍の悪性腫瘍・三上卓中尉の命日

昭和46(1971)年の明日10月25日は5.15事件で犬養毅首相を射殺しながらも戦前は軍国主義者として暗躍し、敗戦後も大物右翼として活動した三上卓中尉の命日です。没年は66歳でしたから事件当時はまさしく「青年将校」だったことが判ります。
三上中尉は日露戦争が終わった明治38(1905)年に佐賀県本庄村(現在の佐賀市本庄町)で生まれ、旧制佐賀中学校を卒業後、大正15(1926)年に海軍兵学校に54期生として入営しました。当時は明治の近代化の土壌にようやく民主主義が花開いた大正デモクラシーを民族の堕落、弱体化として嫌悪・否定する右翼たちが時代錯誤な復古主義の声を上げ始めていて、元来がそのような気質を持つ佐賀県出身の三上中尉も疑うことなく骨の髄まで染まっていったようです。実際、海軍兵学校を修了して間もない昭和5(1930)年には「昭和維新の歌」として有名な「青年日本の歌」を作詞しています。
海軍は占領地の行政を担当するため組織風土として政治性を帯びている陸軍とは違い俗世を離れた海を戦場とするため政治に関与することを嫌うのですが、三上中尉は陸軍の過激派青年将校や右翼の大物たちと交際し、海軍には迷惑な存在感を発揮していたようです。
この頃の政治は大正12(1923)年に発生した関東大震災によって国家財政が破綻寸前まで追い込まれ、それから立ち直りつつあった昭和2(1929)年には世界恐慌が起こり、さらに東北地方を襲う冷害などによって国民は貧困の極地に陥っていました。
これを共産革命につなげようとする偽右翼たちは「幕末の倒幕で天皇親政になった結果、日本の近代化と富国強兵が実現したように党利党略・私利私欲に走り国民の窮状を顧みない政党政治家を排除することで『昭和維新』を実現するべきだ」との美辞麗句を弄して単純な青年将校たちを扇動していたのです。三上中尉が作詞した「青年日本の歌」には吉田松陰くんが弟子たちを扇動した独善的狂気が模倣されています。
こうして昭和7(1932)年5月15日に「昭和維新」の先陣を切り、海軍にも憂国の士がいることを知らしめるために凶行に及んだのが5.15事件でした。この日、三上中尉は同志として手懐けた山岸宏海軍中尉、村山格之海軍少尉、黒岩海軍予備少尉と陸軍士官学校の後藤映範学生、八木春雄学生、石関栄学生、篠原市之助学生、野村三郎学生の9人で首相官邸を襲い、休日を過ごしていた犬養首相を射殺しました。
三上中尉は横須賀での軍事法廷で反乱罪による死刑を求刑されましたが懲役15年の判決を受けて小菅刑務所で服役しました。昭和13(1938)年に仮出所すると作家として活動を始めながら「皇道翼賛青年同盟」を結成すると何故か近衛文麿首相の側近になり、敗戦の2年前には大政翼賛会傘下の日本翼賛壮年団の理事に就任しています。
敗戦後も意気消沈することなく台湾からの密輸事件で逮捕されて服役し、昭和28(1953)年の参議院選挙に出馬して落選、そしてトドメに昭和36(1961)年の「三無(さんゆう)事件」の首謀者の1人として逮捕されましたが起訴猶予になりました。
それにしても大杉栄・伊藤野枝殺害事件を起こしながら満州国建国を取り仕切った甘粕正彦大尉と同様に軍事裁判で有罪になった前科者とは思えない活躍ぶりです。
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  1. 2018/10/24(水) 09:34:10|
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