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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

10月29日・天台宗寺門派の開祖・円珍が遷化した。

朝廷では菅原道真さんが活躍していた寛平3(801)年の10月29日(太陰暦)に天台修験の大成者にして円城寺=三井寺を本山とする天台宗寺門派の開祖である智証大師・円珍さまが遷化しました。
比叡山で勤められる千日回峰行をマスコミが取り上げるため天台修験が密教の本家である真言宗よりも知名度を得ていることがありますが、天台宗の宗祖の伝教大師・最澄さまは唐へ官費留学した際、すでに時代遅れになりつつあった法華教学だけを学んで帰ったため最新だった密教を学び、恵果阿闍梨の法を継承して帰った弘法大師・空海さまから学ばなければなりませんでした。ところが煩悩=欲望を社会の浄化と衆生を済度する原動力とする教えを説いている大楽金剛真実三摩耶経=理趣経の貸借を巡って確執が生じたため天台宗は密教を取り入れることはできなかったのです。しかし、社会不安から現世利益を求める朝廷や貴族の要望は高まる一方だったので天台宗としても密教の導入を急ぐ必要が生じ、慈覚大師・円仁さまを唐に派遣して遅れ馳せながら比叡山でも修験が行じられるようになりました。
そんな天台修験を大成した円珍さまは妙な経歴の持ち主なのです。先ず弘仁5(814)年に生まれた場所が空海さまの生誕地である讃岐の国の善通寺(現在の香川県善通寺市)から4キロほど北東の金倉郷(同じ善通寺市内)なのです。普通は同じ道を志すのなら郷土の偉人を慕って真言宗に向かうと思うのですが何故か数えの15歳の時、比叡山に上って天台宗で得度を受けています。
ところが修行者を学僧と呼んでいるように教学の研鑽を主とする比叡山の宗風(まだ円仁さまは留学していなかった)に飽き足らず、30歳を過ぎた頃から修験道の祖・役の行者=小角に憧れて大峯山や葛城山、熊野三山を巡拜するようになりました。そして帰国した円仁さまが天台座主に就任する前年の仁寿3(853)年、遣唐使に加わって唐へ留学したのです。円珍さまの頭は巨大な卵をそのまま首の上に載せたような形でこれを唐の異端派の密教では「霊蓋(れいがい)」と呼んで予知能力を授かる秘宝として求める者が多く、殺されて首を奪われないように周囲は非常に気を使ったと言われています。また唐への留学中に皇帝・武宗が道教に傾倒して廃佛を命じたため還俗させられていますが同時期に天台宗から留学していた円載さんが妻を娶って破戒したのに対して円珍さまは密かに修行を続けていたと本人の体験記で自己申告しています。
天安2(858)年に唐との貿易船で帰国するとしばらくは故郷に寺を建立するために滞在し、その後、比叡山に戻ると貞観10(868)年には天台座主になりました。ところがその頃の比叡山は僧兵が占拠しており、これを苦々しく思っていた朝廷から円城寺を与えられるとここを伝法灌頂の道場としたのです。こうして比叡山延暦寺を山門派、円城寺を寺門派と呼んで分裂、対立するようになり、それは平安末期まで尾を引き、平清盛さまが比叡山で得度を受けたのに対して後白河上皇は円城寺を選ぶなど権力者たちもその対立を利用しつつも振り回され続けました。
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  1. 2018/10/28(日) 09:31:40|
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