FC2ブログ

古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

第72回月刊宗教講座・浄土真宗「異安心」

そもそも東アジアに伝来した佛教は始めから書物での学問的教義と佛像などの宝物、儀式の作法に過ぎず伝来した時期によって差異が生じるのは至極当然でした。それは日本への伝来も同様だったのですが、中国で佛教が変化、発展していった過程と日本が受容した順番に大きな逆転が生じてしまったためかえって独自の教義を持つ宗派を展開することになったのです。したがって学問として始まった奈良佛教から平安初期の天台宗・真言宗の移入・成立を経て百花繚乱の鎌倉佛教、さらに明治の廃佛毀釋と国家神道による思想統制、その狂気が引き起こした昭和の軍国主義、さらに戦後に至るまで教義の解釈を巡る対立などにより各宗派は分裂を繰り返してきたのですが、その中で浄土真宗だけは教義の統制を厳格に行い、異端と断定すれば「異安心(いあんじん)」として苛烈・陰湿な弾圧を加えてきました。
実は浄土真宗の異端=異安心は宗祖・親鸞聖人の存命中から始まっていました。浄土真宗は親鸞聖人が法然坊源空上人の高弟であったかのように自称していますが、現存している書状などの署名の序列を見る限りそれ程のことはなく、むしろ公然と妻帯したことで念佛門に批判的な既成の佛教勢力や朝廷から問題視されていたため、法然上人の流刑に連座しただけと考えるべきでしょう。そうして流刑の地・越後から関東に流れついていた親鸞聖人も老境を迎えて望郷の念に駆られると弟子や信者たちを捨てて京都に戻ってしまい、そのため関東に残された弟子や信者たちの間で教義に対する疑義が発生したのです。それを解決するために京まで訪ねてきた弟子の唯円坊が身近に接して見聞した親鸞聖人の言行録が「歎異抄」ですが、この題名は「親鸞聖人の真意と広まっている教義が異なっていることを嘆く」と言う意味なのですから宗派としての体質と言うよりも説いていた教義そのものに構造的な欠陥があったと見るべきかも知れません。「歎異抄」を何度熟読しても眼前の市中で迷い苦しむ衆生や置き去りにしてきた門弟たちを気遣う言葉は見当たらず、「性欲に負ける愚かで罪深い自分が救われるためには」との強迫観念だけの言葉遊びのような机上の論理に終始しており、ついには法然上人の「選択(せんじゃく)=多くの佛法の中から阿弥陀如来の救いを選ぶ」と言う法理からも逸脱して「阿弥陀如来の誓願だけにすがるしかない」と言う独り善がりな結論に至ったのです。
現在も浄土真宗では門徒たちに阿弥陀如来への一向専一の信心を説いていますが、病気を患って健康回復を祈って「南無阿弥陀佛」と唱えれば西方浄土に往生=死去させられてしまいます。また子供の受験で合格を願っても浄土真宗の教義では「全て阿弥陀如来にお任せする」だけですから加護・助力を期待することは無理です。後年、関東の門徒たちの動揺を鎮めるため息子の善鸞さんが派遣されましたが、「父から夜中に秘かに授かった」とする「秘事法門」を説いたため義絶=勘当されました。しかし、善鸞さんがあえてこの秘儀を明かさずを得なかった原因はやはり関東の地では親鸞聖人の世情を無視した教義だけでは人々の不安を除くことができなかったからでしょう。なお、この「秘事法門」と真言密教を起源とする「かくし念佛」などは現在に至るまで全国各地で継承され、本願寺は抹殺に躍起になっています。その後、京都の浄土真宗は浄土宗の中の異端の一派として細々と存続し、逆に関東に残された高田派は独自の発展を遂げて行きました。
そんな中で浄土真宗を日本最大の宗派にした稀代の組織経営者・蓮如妾人(しょうにん=問主が下女を妾にして産ませた子供だった)が出現したのです。蓮如妾人は宗教的な探求・進化で他の宗派に対抗するのではなく親鸞聖人の血統にある自分を唯一絶対の頂点とする組織制度を確立することで教団を強固にしました。
そのため親鸞聖人の自己満足な教義を一般庶民が納得するように変質させ、「御文」=「御文章」と呼ばれる書簡で通信教育を行ったのですが、それは「生きていくために罪を犯さざるを得ない衆生も阿弥陀如来は必ず救ってくれる」と言う欺瞞です。何故ならその罪と言うのは生き物の生命を奪う殺生であり、仕入れ値に利益を上乗せする商売の偽計であり、異性と肉体関係を持つ姦淫であってそれは僧侶が保つべき戒律に過ぎません。要するに僧侶でありながら戒律を保てない親鸞聖人と保たないその子孫たちが生業として漁師が魚を獲り、猟師が獣を狩ること、商人が利益を得ること、そして他に働く術(すべ)がない女性が身を売ること(下手すれば夫婦の営みまで含めることがある)を殊更に「罪」と言い立てながら地獄の責め苦を語って怯えさせた上で「そんな我等を救ってくれるのは阿弥陀如来だけだ」と断定したのですからこれは宗教詐欺に類します。実際、おそらく世界の佛教界の頂点に立っておられるダライ・ラマ14世法王猊下は日本の浄土真宗の教義を「カルトに近い」と評されています。そんな蓮如妾人の強引な組織経営では異端=異安心は徹底的に排除しなければならなくなるのは至極当然で、実際の教義の正当性ではなく宗祖・親鸞聖人の血統にある自分に従うか否かで教団への忠誠心を判定し、「異安心」と断定されれば巨大化した組織から排除されて村八分同然の扱いを受けたので、門徒たちは進んで洗脳を受け容れていきました。
江戸時代に入ると幕府は宗教の取り締り専門の寺社奉行を設置しますが、浄土真宗は独自に「異安心」を調査、審問、弾圧を行っていました。しかし、宗門中枢で教義の解釈を巡る対立が起こると他力本願の宗旨だけに自力では解決ができず寺社奉行の仲裁を求めることになり、中でも明和3(1763)年に発生した三業惑乱は浄土真宗が宗教的活力を喪失し、探究心を否定して言われることを盲信するだけの文字通り「門徒物知らず」の教団になっていることを如実に物語る醜態になったのです。三業惑乱とは宝暦年間に北陸で広まった「無帰命安心=阿弥陀如来が十劫の苦行を経て成佛した時、すでに衆生の救済も成就しているのだから、それを忘れないことが信心である」と言う教説を「異安心」と断定したことに端を発し、その糾弾のため北陸に派遣された本願寺派の能化(役職名=学僧教育の責任者・当時は問主よりも上位だった)が執筆した報告書が「三業帰命説=意識、口頭、行為の三業を通じて阿弥陀佛の救済を求め、それぞれの業に帰命の相が宿っていなければならない」と言う立場をとっていたことが逆に「自力」であると批判されたのです。しかし、しかし、能化は本願寺派の教義を学究し、全国から集まってくる門徒寺院の後継者たちを教導する立場なのでその思想は本願寺派内で継承されることになり、本人没後の後任が同様の立場で教説を唱えたことで宗門内では賛否両論が湧き起こり宗門を二分する争議になりました。他の宗派であればこのような対立は学識・修行の最高権威が裁断を下すか、派を分離・独立させることで発展的に解決するのですが、浄土真宗では互いに罵り合いを繰り返すだけで終息させることができず、やがては門徒同士の抗争が生起したため京都所司代を通じて寺社奉行の判定を仰ぐことになったのです。この時の寺社奉行・脇坂安菫(やすただ)さんは本来、幕府の要職には就けない元外様大名(祖父が懇願して譜代に加えてもらっていた)でありながら11代将軍・徳川家斉公の抜擢により寺社奉行となった偉才だったので、本願寺派内の高僧たちに勝る教説で両者を論破し、見事に収束させたのです。これを見ても浄土真宗では「異安心」が教義の純化ばかりが独り歩きして現実から乖離したところまで行きついていたことが判ります。
現在も大した見識もなく場当たり的に本山が発した対策で現実離れは悪化しており、本来は阿弥陀三尊であった観世音菩薩・大勢至菩薩への信仰すら否定し、それどころか大恩教主・釋迦牟尼佛よりも宗祖・親鸞聖人を崇敬するようになっています。その癖、全国各地に現れた京都・本願寺の常識を超越した熱烈・強固な信仰者まで指弾の対象になっており、大声で無心に念佛を唱え続け、やがては無我の境地に至る高唱念佛者や念佛を唱えながら市中を巡り歩き、多くの人々を教化して念佛行者と呼ばれた傑僧・高僧・名僧たちは度々「自力である」と指弾を受けており、そのような内向きに排他的な宗風は現在も気分として継承されています。
中でも地方で継承されていた密教的色彩を帯びた前述の「秘事法門」は存在が発覚すると「異義」「邪義」として根絶するべく徹底的な弾圧を加えられました。野僧は中学生の頃からこの「秘事法門」と「かくし念佛」に興味を持って研究を始めており、自衛隊に入ってからは赴任する先々でそれに関連した噂を探索し、知り合った地域住民や出身者から話を訊き出すなどの地道な調査を続けてきました。しかし、「秘事法門」が発覚すれば浄土真宗から徹底的な弾圧が加えられることになるため一様に極めて口は固く、酒を大量に飲ませて質問しても泣きながら「殺されてしまいますよ」と断るのでした。それでも宗教学・民俗学的には「広島以東の本州各地と北海道に存在する」とされている「秘事法門」「かくし念佛」(=通称としては「密儀」「御庫(おくら)念佛」「土蔵秘儀」「暗法門」「くらがり法門」「言わず講」「なま講」などと地域ごとに異なる)は四国や九州の離島にも存在していることを確認しています。ただし、四国では八十八カ所巡りの本場だけに弘法大師に由来する「かくし念佛」か伊予出身の時宗の宗祖・一遍上人の系譜と称していました。特に九州の離島では領主が一向一揆の脅威を耳にして浄土真宗を禁教としたため存在そのものが「隠れ門徒」であり、警戒は異常なほど厳格でした。その秘儀が行われている間は集落の入り口に複数の屈強な若者が立ち、郵便物や宅配便もそこで受け取って中には入れないのです。警察官の巡回でさえ拒否し、本来であれば「公務執行妨害」になる行為も押し通すほどの力を持っていました。そんな訳で調査に訪れただけの学者が存在を確認できなかったのも当然でしょう。
浄土真宗では「秘儀法門」を関東の門徒たちの信頼を獲得できなかった善鸞さんが窮余の策として捏造した虚偽として完全に否定していますが、これは下女に手がついて産まれた子供に過ぎない蓮如妾人にとって自分よりも正当な嫡流が関東に存在することは立場を覆す脅威であったのは間違いなく、そんな強迫観念が狂気のような弾圧に走らせたのでしょう。しかし、全国各地に伝承されている秘儀法門の作法は驚くほど共通しており、然も全国各地に伝承されている以上、善鸞さん個人の創作や土着的に発生した風習ではなく正当に伝承された儀式であることを確信しています。実際、親鸞聖人自身も「現世利益」や「(天台宗や禅宗などで勤められている)首楞厳経によりて大勢至菩薩和讃したてまつる」などの和讃を作っており、後世の浄土真宗のように浄土三部経(重誓偈は佛説無量寿経の一節)と正信念佛偈、そして御文=御文章だけを勤めていた訳ではなかったのです。したがって親鸞聖人が善鸞さんを義絶したのは浄土真宗が主張しているように虚偽を説いたことではなく秘密の漏洩が原因だったのでしょう。何しても戯曲「出家とその弟子」でそのような印象を幅広く流布した倉田百三さんの責任は重いです。
「秘儀法門」は僧侶や指導的立場にある門徒には絶対秘密であり近親・縁者や親しく信頼できる友人・知人を通じて申し入れた希望者を集めて開かれるようです。人数、年齢層、職業などに制限はなく、秘密を守ることが絶対条件とのことでした。秘儀を行う際は教主的存在である長老が「我れは親鸞から何代目の次第相承の善知識(「俗知識」など役職名は異なる)である」「寺や僧侶は表であるが、我々の裏の法門こそ真実である」などと宣言した後、信者たちを土蔵の暗闇の中に招き入れ、鍵をかけてから「この度、以前からの望み通りに極楽の人になるのである。ただひたすらに『助け給え』と唱えよ」と言い聞かせます。続いて「左右の指を組み合わせて鳩尾(みぞおち)に当てて強く抑え、目を閉じて私(善知識)から『開けて良い』と言われるまでは開けずに唱えよ」と説明した上で「この秘儀を終えて救われた時には年を終えて春を迎えた時のような清々しい気持ちになり、妊婦が無事に出産を終えて安堵したような気持ちになる。この一念を往生した刻(とき)と定めて、その後は命が生き永らえればとそのまま念佛を唱えよ。それが報恩の多念念佛だ」などと救済の秘儀に臨む心構えや重要性を述べます。そうして信者は一心不乱に「助け給え」と唱え続け、やがて暗闇の中で茫然自失、脱魂状態になり、その瞬間を見切った善知識、若しくは立ち合いの経験者が灯りを差し出して「今こそお助けが成就したぞ」と闇を破るような強い口調で宣言するのです。地域によっては禅宗が用いる手警策(通常の坐禅で用いる警策の半分ほどの長さで、片手で打つ)で肩や背中を打つ場合もあるようです。こうして感動の涙にむせぶ信者に「念佛」を唱えることを許し、善知識と一緒に「南無阿弥陀佛」と六字名号を唱えて儀式は終わります。なお、東北地方では上座の台に阿弥陀佛と観世音菩薩・大勢至菩薩と一緒に遍照金剛(弘法大師)や善知識・善鸞聖人などと記した信牌を並べる地域もあるようです。「南無阿弥陀佛」
72・善鸞坐像手警策を持っている善鸞さんの坐像
関東地方の某門徒寺院に祀られている。親子だけに親鸞聖人に瓜二つです。京都の末裔は大谷姓を名乗っていますが善鸞さんの系譜は親鸞聖人が流刑になった時の藤井姓です。
スポンサーサイト



  1. 2018/11/01(木) 09:26:32|
  2. 月刊「宗教」講座
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<振り向けばイエスタディ1360 | ホーム | 振り向けばイエスタディ1359>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://1pen1kyusho3.blog.fc2.com/tb.php/4986-3ae0a54c
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)