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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

11月3日・千日回峰行の元祖である建立大師・相応が遷化した。

延喜18(918)年の11月3日(太陰暦)に現在も比叡山で続けられている千日回峰行の元祖である建立大師・相応さまが遷化しました。
相応さまは平安京に遷都して32年目である天長3(831)年に近江国浅井(あざい)の郷で生まれ、15歳で比叡山に上り、17歳で得度を受けました。この頃の比叡山は最澄さまが弘仁13(822)年に遷化して四半世紀が経過しており、天台宗密教を確立する円仁さまは唐に留学中で緩みが生じていました。そんな中、相応さまは経典の学習に打ち込み、やがて天台宗の根本経典である妙法蓮華経の常不軽菩薩品(釋尊の前世の姿で迫害を受けても抵抗することなく受け留め、逆に妙法蓮華経を説いて折伏した。法華経信者の宮沢賢治くんが心酔していて「雨ニモ負ケズ」は経典の教えを反映している)に強く惹かれ、不軽菩薩の行を修したいと発願するようになりました。
しかし、僧侶は現在と同じく師僧の命ずるままに動くことしか許されず、無念の思いを抱きながら師僧に仕えていたのですが、「その願いを叶えてもらいたい」と毎朝、根本中堂に花を手向けるようになったのです。その頃、帰国した円仁さんは根本中堂の傍に住んでいたのですが、この相応さまの行為に気づいて観察していたところそれは7年に及んだそうです。やがて斉衡元(854)年に円仁さまが天台座主に就任すると信心の固さを認められて度者(国家公認の得度者・通常は宗門の登録)に推薦されますが、それを願って夜中に涙を流しながら祈っていた別の学僧に譲ってしまいました。ところが翌年、朝廷の有力者が円仁さまに「自分の代わりに修行する個人的な度者を立てたい」と要請し、今度は相応さまが受けることになったのです。この時、有力者の名前の一字を受けて相応と改名しました。
相応さまは度者になると12年間の山籠を発願して比叡山に閉じこもり、山内の各堂宇や霊場を巡る回峰行を始めたのですが、3年目に有力者の娘が悪霊に憑依されたため円仁さまの命令で下山して除霊を勤めました。比叡山に戻ると今度は3年間の五穀断ちをしての滝行を発願しますが、今度は天皇からの勅命で天神の降臨を行ずることになり、再び途中で下山することになったのです。
その後も山籠を発願しては途中で朝廷や公家の招請で下山させられることを繰り返し、ついには「都に近い比叡山では気軽に声をかけられるから」と金峯山での3年間の山籠を発願したもののこの時は夢告を受けて自ら下山しています。それだけ相応さまの加持祈祷は効力が大きかったと言うことで実際、極めて多くの霊験説話が伝わっています。
意外に知られていない相応さまの業績としては貞観8(866)年に天皇から宗祖・最澄さまに伝教大師、円仁さまに慈覚大師の号を受けたことがあります(今ではワンセットンにして呼んでいますが)。そんなご本人は建立大師ですが、これは自作の不動明王像を本尊とする無動寺(天台宗別院)を建立したからではないでしょう。
最晩年には止むを得ない事情とは言え山籠を発願しながら中断してきたことを懺悔して80歳を過ぎた延喜11(911)年から8年間の修行を始め、7年目の遷化でした。
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  1. 2018/11/03(土) 09:57:09|
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