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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

11月12日・日本の洋服記念日

11月12日は明治5(1872)年に「礼装は洋服を採用する=裃(かみしも)や束帯を廃止する」と言う太政官布告が出たことで全日本洋服協同組合連合会が創立100周年を記念して制定した「洋服記念日」です。
この時期は3代将軍・徳川家光公が始めた国交をオランダと中国、朝鮮に限定した外交政策を幕府自らが変更して開国に踏み切ったことを否定する「尊皇攘夷」を大義名分にしておきながら外国製の武器を大量に購入したことで武力討幕に成功した薩長土肥の新政府は、手のひらを返すように日本の西洋化を十分な検討をせずに急激に推し進め、中でも明治天皇が15歳であったことを利用して宮中の儀礼や慣習を形式的に維持しながら服装や小道具、供される酒食などの西洋化を進めていました。
これに先立つ明治4(1871)年8月9日(太陰暦)には「散髪と脱刀を許可する」太政官布告がでていますが、これは明治に改元して以降、生活に困った士族が刀剣を売りに出すようになっただけでなく庶民まで維持費と手間が掛かる髷を止める者が続出していたことを受けて徳川幕府の服装容儀に関する法度の廃止を明文化してこの動きを推し進めようとしたのです。ところがこの布告に過剰反応して女性まで短く刈ってしまう事例が全国に広がったため明治5(1872)年4月5日(太陰暦)には「女子の断髪を禁止する」布告を出しています。この他にもこの年の11月9日に太陰暦から太陽暦に移行する詔勅が出ており、明治8(1875)年には尺貫法からメートル・キログラム法に移行する「度量衡条例」が発令されて同時期に吹き荒れていた廃佛毀釋と共に日本人の精神から生活様式まで破壊の限りを尽くしていたのです。
徳川幕府の服装容儀に関する法度は現在の中学・高校の校則や自衛隊の服装規則などよりも事細かに定められており、同じ武士でも身分の上下によって着用できる衣類の材質や色が定められていて儀式ごとに分類されていたため大名と言えども江戸城内の儀式を担当するにはこれに精通した専門家の指導を仰がなければならず、その専門家である名君・吉良上野介義央さまの厳格な指導を逆恨みして刃傷沙汰を起こしたのが天下の馬鹿殿・浅野内匠頭長矩くんでした。新政府に参加した公家たちは宮中の同様の作法には精通していたのでしょうけど下級武士から成り上がった薩長土肥の人間たちがこのような上流社会の儀礼を知るはずがなく、ここでも西洋文化の導入を大義名分にして伝統文化を破壊したのかも知れません。
何にしても明治新政府は単なる思いつきレベルの決定を下級武士ならではの狭量さで職人などの仕事への影響などを考慮することもなく過度に徹底し、旧来の方式を一方的に禁止する暴挙を犯し続けてきました。和装は日本の風土の中で日本人の身体の特性と生活様式に応じて発展してきた服装であって決して機能的に劣っている訳ではありません。
野僧は現役時代、航空幕僚長に「自衛隊の礼装は行司のような直垂(ひたたれ)にしましょう」と意見具申したことがありますが「ハッハッハッ」と笑って却下されました。
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  1. 2018/11/11(日) 09:38:16|
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