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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

11月14日・日本共産党の初代議長・野坂参三の命日

1993年の明日11月14日は日本共産党の創設期からの指導者で敗戦後は初代議長に選任された野坂参三さんの命日です。何と101歳でした。
野坂さんは明治25(1892)年に日本のテロリストの聖地・山口県萩市で商家の息子として生まれました。誕生日が3月30日だったため3と3を重ねて「参弎」と名づけられ、9歳で母の実家の野坂家に養子に出されたことで野坂参三になりました。
萩の旧制中学校を卒業後、神戸商業学校に進学しましたが在学中に「社会主義を論ず」と言う論文を発表したため教師から手厳しく叱責されたようです。しかし、この時点ではまだ大正デモクラシーは起こっておらず、やがてロシア革命を引き起こす社会主義運動も日本では京都帝国大学のヨーロッパ留学を経験した理数系の教授陣が講義の中で余談的に紹介していた段階でしたから、どうして商業学校の生徒が論文を書けるほどの知識を有していたのかは不明です。それでも明治45(1912)年に商業学校を卒業して慶応義塾に進学すると労働運動に参加するようになりましたが、当時は社会主義革命を目指すような過激な組織ではなく労働者同士の相互扶助や学生が労働の実態を学び、支援する穏健な団体でした。ところが大正8(1919)年に幹部になっていた労働団体からイギリスに派遣されたことで本場ヨーロッパの社会主義運動に染まり、グレートブリテン共産党(1991年まで無議席で存在していた)に入党し、帰国後は日本共産党の結成に参加しました。しかし、大正12(1923)年には当局の検挙が及ぶことを察知してロシア革命から6年目のソビエト社会主義共和国連邦に密航しています。
ほとぼりが冷めて帰国すると日本では大正14(1925)年に治安維持法が制定され、昭和3(1928)年3月15日には全国の共産党の一斉摘発が実施され、野坂さんも検挙されましたが釈放後は昭和6(1931)年に妻を伴って密かにソ連に亡命し「ここでスパイ教育を受けた」と最晩年になって告白しています。
戦時中はソ連のスパイとして訪米するとアメリカ共産党に終戦前、対日ラジオ放送で「天皇を戦犯として処刑する」と言わせて日本の降伏を妨害するなどの影響を与え、中国では毛沢東さんに合流して現地で抑留されていた在中国日本人や日本軍捕虜の洗脳教育に当たりました。こうして敗戦を迎えると英雄として帰国し、合法化された共産党に参加しましたが「新憲法下では選挙によって政権を奪取することが可能である」とする野坂さんはあくまでも武闘革命を堅持しようとする山口県光市出身の宮本顕治さんと対立することになり、党内抗争に敗れると象徴的存在に祭り上げられていったのです。
国会議員としての珍事としては日本国憲法第9条を巡って野坂さんが「自衛権を有さない国家は存在しない」と批判したのに対して吉田茂首相が「全ての戦争は自衛を口実に行われている」と答弁した立場逆転の問答が記録されています。
野坂さんは最晩年の手記で自分がソ連のスパイであったことを告白し、まだ宮本さんが権勢を奮っていた共産党から除名と全ての名誉の剥奪、年金の支給停止などの処分を受けていますが、多くの日本人は「やっぱり」と納得しただけではないでしょうか。
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  1. 2018/11/13(火) 09:46:14|
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