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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

11月18日・「日本マラソンの父」金栗四三の命日

昭和58(1983)年の明日11月18日は日本が初めて参加した明治45(1912)年=大正元年の4日前までの第5回ストックホルム・オリンピックの代表となり、その後も大正9(1920)年の第7回アントワープ・オリンピック、大正13(1924)年の第8回パリ・オリンピックに出場しただけでなく(第6回ベルリン・オリンピックは第1次世界大戦のため中止された)、現在も新年早々の恒例行事として継承されている東京と箱根を往復する大学駅伝やそれよりも長い歴史を有しながら陸上自衛隊が活躍するためマスコミは取り上げない富士登山駅伝の創始者として「日本マラソンの父」と称されている金栗四三(かなぐりしぞう)さんの命日です。92歳でした。
金栗さんは明治24(1891)年に熊本県玉名郡で生まれ、旧制玉名中学校を卒業後には東京高等師範学校(現在の筑波大学)に入学しました。
金栗さんは出場が決まったストックホルム・オリンピックの代表選考会に足袋を履いて出場し、当時の世界記録を27分も上回る2時間32分48秒で優勝しました。ちなみに当時のマラソンの走行距離は25マイル=40.225キロでした。こうして団長の嘉納治五郎先生や短距離の三島弥彦さんと共にユニフォーム姿でプラカードを持って入場したのです(国旗は三島さん)。
しかし、選手団の移動は船でウラジオストックに渡り、そこからシベリア鉄道と言う過酷なもので、さらに夏のスウェーデンは白夜のため安眠できず、しかも米や調味料を大量に携帯できなかったことで日本食を十分に喫食することはできず、そうした体調不良の中で迎えた競技当日は40度を超える高温になったため出場選手68名の半数が倒れて棄権する状況になり、金栗さんも意識を失って途中の農家に収容されることになってしまいました。ところが農家は組織委員会に通報せず金栗さんが意識を回復したのは翌日だったため行方不明の失踪として扱われ「消えた東洋人選手」と言う謎の伝説として語り継がれることになりました。
そうとは知らずに失意のうちに帰国した金栗さんは心機一転マラソンの普及と同時に近代的な長距離ランナーのトレーニング方法とコンディション管理などを指導していたのですが、昭和42(1967)年になってスウェーデンのオリンピック委員会が開催したストックホルム・オリンピック55周年記念大会に招待され、競技場のトラックをユックリ回ってゴール・テープを切り、54年8カ月6日5時間32分20秒3の公式記録が認定されました。
(長年、河野洋平よんが会長を務めていた)陸上競技連盟は毎回繰り返されるマラソンの代表選考のゴタゴタを見れば明らかなように他のスポーツ団体に比べて極端に学閥と派閥意識が強く、金栗さんの東京高等師範学校の後輩に当たる「暁の超特急」吉岡隆徳さんの指導を受けて29年ぶりに100メートルの日本新記録を塗り替えた飯島秀雄さんは早稲田大学出身でありながら6大学に教職を得ることができませんでした。そんな陸上競技連盟も競技そのものの扉を開いた重鎮の言うことには素直に従ったようです。
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  1. 2018/11/17(土) 09:54:15|
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