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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

2月7日・一ノ谷の合戦

1184(元暦1)年の明日2月7日(太陰暦)に一ノ谷の合戦が行われました。
一ノ谷の合戦と言えば「平家物語」では義経のひよどり越えの逆落とし、忠度・敦盛の最期などのドラマチックな場面が伝えられています(物語ではありますが)。
一ノ谷の合戦は義経の鵯越ばかりが有名でそれで勝敗が決したように思われいますが、源氏軍の主力は蒲冠者・源範頼(義朝の6男)が率いた平地からの攻撃側で、義経はあくまでも少数で裏を突く攪乱が役割だったようです。ちなみに「蒲冠者」と言うのは範頼が現在の浜松市神明町にあたる蒲御厨で育ったことによります。
またこの時代の馬は鹿児島県の都井岬や各地にいる原生種を見ても判るようにポニーかロバ並みの小型でした。東北で産する馬は比較的大型でしたが、下北半島の寒立馬や北海道の道産子を見てもアラブ種などよりは小型(短足)ですから大したことはありません。
また当時は西洋のような金属製の馬蹄がなく草鞋を履かしていたそうで、「傾斜が急な山からの逆落としでは馬が脚を痛めるから」と畠山重忠と言う坂東武者は愛馬・三日月を背負って下りたと「源平盛衰記」には書かれています。ただし、「吾妻鏡」では重忠は範頼軍と記されており、「平家物語」には出てきませんから真偽の程はわかりません。
忠度・敦盛の最期は忠盛の命日で間違って記した文部省唱歌「青葉の笛」で劇的に謳われていますが、敦盛は笛の名手であった経盛(清盛の弟)の末子で、父譲りの笛の名手だったようです。また敦盛を討った熊谷次郎直実は世のはかなさを噛み締め、出家して法然上人の高弟になりました。
一方、忠度は都落ちの折、歌の師・藤原俊成(定家の父)を訪ね、「将来、勅撰和歌集が編纂されることがあればこの歌を」と形見として一首を託したのです。
それが「さざ浪や 志賀の都は あれにしを 昔ながらの 山桜かな」で、千載集には「詠み人知らず(=作者不明)」とされていますが平家物語で皆知っています。

 青葉の笛(再度紹介)
            詞・大和田建樹 曲・岡村虎蔵

一の谷の軍(いくさ)破れ 討たれし平家の 公達あわれ
暁寒き須磨の嵐に 聞こえしはこれか 青葉の笛

更くる夜半に門を敲き わが師に託せし 言の葉あわれ
今わの際まで 持ちし箙(えびら)に 残れるは花や 今宵の歌

(これは日露戦争翌年の明治39年の歌ですから国民の厭戦気分が投影されているのでしょう)
  1. 2013/02/06(水) 08:49:01|
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