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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

第73回月刊「宗教」講座・廃佛毀釋の狂気の中で抹殺された修験道

修験道は釋尊が街外れの精舎での穏やかで真摯な修行生活を勧めたのに対して深山幽谷に分け入り、大自然の霊気を吸収しながら自己の生命を極限まで追い込むことで身心段落の境地に至る修行であり、古来の自然崇拜と佛教が融合した我が国独自の宗教と言われています。アジアにおける自然崇拝の宗教と言うと中国の道教が代表格であり、我が国でも古墳などから出土している銅鏡の裏側に陰陽五行説に基づく模様が見られることからかなり古い時期に伝来していたのは間違いありません。しかし、道教は天体の動きや風水、方位などの視点から自然を分析し、それに統計学の手法と合わせて凶事が起こる兆候を数理的に察知し、災厄を避け、吉慶を得られる方向性を占う宗教とも言えない占術であるのに対して修験道は大自然が持つ大いなる力を身体に吸収し、統計学ではない自然の声を聴く感性を磨き、災厄を警告すると同時に天候気象を予告して農業や漁業の収穫を援ける宗教と言うよりも超能力です。
修験道を確立したのは飛鳥時代の実在の人物であり、神変大菩薩の宝号を有する役行者(えんのぎょうじゃ)=役小角(えんのこづの)さまです。役行者と言うと頭巾を被り、脛をむき出しにして右手に杖を持って石に腰かけた老人姿の石像は修験者が歩いた全国各地にありますが、史実としての実像は正確には伝承されておらず信仰の対象になっていた後世の超人伝説を採集したものが大半ですが、実在したことだけは間違いないようです。役行者さまは舒明天皇の時代に大和国の葛城郷=現在の奈良県御所市茅原で生まれたとされ(生誕地には修験宗の吉祥草寺がある)、17歳で奈良7大寺の元興寺で孔雀明王の呪法を学んだ後、葛城山や熊野、大峯で山岳修行を始め、吉野の金峯山で金剛蔵王権現の霊威を感得したと言うことです。さらに播磨の甲山や六甲山でも修行を続け、今度は弁財天の霊威を感得し、親族である四鬼氏を移住させて守護させたとされています。このことが鬼神を従者にしていたとの伝説を生んだのかも知れません。日本霊異記では「佛教を篤く信仰した在家信者で、孔雀明王の呪法を修行して霊威を感得し、仙人になって空を飛んで全国各地に足跡を記した」とあります。確かに孔雀明王はインド・ヒンドゥー教の女神・マハーマユーリーを佛教が取り込んだ護法天(佛教名・摩訶摩瑜利)で孔雀が空を飛んで地上に降り立ち、害虫や毒蛇を食べるように人々を守り、煩悩と言う害毒を消滅させる力を発揮すると言われていますから、その霊威を感得した役行者さまが空を飛ぶのは至極当然なのでしょう。その後、弘法大師・空海さまも唐で密教を学ぶ前に四国で修験道の修行に励んでいたとされ、その時の足跡が現在の88カ所になったと言われており、高知の太平洋に面する25番札所・最御崎寺の下方には弘法大師が止観(禅宗で言う坐禅)していて虚空蔵菩薩の霊威を感得したとされる洞窟・みくら洞があります。こうして修験道と密教の融合が始まったのですが、密教は本来、念佛による死後の救済では満足できなくなった中国人が現世利益を求めて妙法蓮華経を考え出したものの(陸のシルクロードを逆踏破した大谷探検隊によって妙法蓮華経と浄土三部経の存在が確認されたのは中国西域以東のみで、むしろ中国から逆流するように広まったと考える方が自然です)信仰だけで現実の幸福が獲得できるはずがなく、そこで天文・気象・自然科学から医学、薬学、土木建築、農業、鉱業などの最先端の科学技術を網羅した近代的宗教であって、この両者が一緒になったことで修験者による祈祷が単なる呪術ではない現実の力を合わせ持つようになりました。真言宗では修験道との融合を図り、役行者が創始したものの一時、毒蛇によって行者が咬み殺されたことで衰退していた大峯奥掛け(吉野金峯山から熊野までの難所を踏破・跋渉する行)を法力で退治・再興して真言宗小野流と呼ばれる醍醐寺派・当山派を創始した理源大師・聖宝(しょうぼう)さまや真言修験道を新義(それ以前の教派は古義)と呼ばれる密教的浄土教として大成した興教大師・覚鑁さまなどによって完成され、一方の天台宗では智証大師・円珍さまや千日回峰行の創始者である建立大師・相応さまによって確立されたことで両密教的修験道が両輪となって衆生済度だけでなく国土をも鎮護してきました。
そんな修験道は宗派としての分類だけでなく修行の場でも独自の発展を遂げており、主なものだけでも東北地方では現在も修験の聖地である山形県の羽黒修験、鳥海修験など(羽黒は死、鳥海は生の修験と呼ばれている)、関東地方では日光修験と富士山の村山修験(法華修験とも融合している)、北陸地方では白山の不動修験、東海地方では御嶽修験や伊吹修験、修験宗の本山・金峯山寺が所在し、真言・天台修験の本場である近畿地方では金剛山の葛城修験や熊野修験など、中国地方では伯耆大山の五流修験、真言宗の聖地である四国地方では石鎚修験、九州地方では福岡県の英彦山修験などの流派があり、修験者の修行の場である霊山は本州最北端の下北半島の恐山から南は奄美大島の硫黄岳まで百を超えます。しかし、江戸時代に入って幕府が寺院・僧侶に住民の把握と切支丹の取り締まりを担当させる檀家制度を確立して全国を網羅するようになると住所不定の修験者たちは禅宗の一派であった明暗宗の虚無僧と同様に幕府が放った隠密の仮装を疑われて各地で取り締まりの対象になったため、本来は幽谷深山に身を置いてその法力による衆生済度のために時折、里に下りていた修験者たちも農村や町中に定住するようになり、やがては山に行くこともなく祈祷や占術の技法だけを模倣した祈祷屋が発生して著しく俗化してしまいました。それでも正当な修験道を継承し、深山幽谷で大自然の力を我がモノとしようと全身全霊を捧げる修行者たちは絶えることなく法灯を守っていました。江戸時代にも肉体を永遠に残し、そこに宿る魂によって衆生を済度し続けようと生きながらに穴に入って生命を絶った即身佛が現れ続け、それは即身佛を自死と断じた明治政府が明治10(1877)年に墳墓発掘禁止令を発してからも明治36(1903)年の佛海上人まで続きました。
即身佛になるためには肉体の血行が止まった瞬間から腐敗を始める脂肪分を徹底的に削ぎ落とし、肝臓を極力縮小しなければなりません。このため米、麦、大豆、小豆、胡麻の五穀に蕎麦、稗、粟、黍、唐黍の五穀を加えた十穀を絶ち、さらに水分も減らして生きながらの乾燥状態を作り、皮膚を強固にするために漆などを舐めることもあるようです。こうして木の皮や木の実、山菜などで命をつなぎながら行を続けますが、いよいよ命が尽きることを察知すると行者は棺桶の中に坐り、前もって掘っておいた穴に入れられて生き埋めにされます。この棺桶の蓋から地面までは節を抜いた竹竿が装着されており、行者はそれで呼吸しながら読経し、持鈴を振り続け、その音が止んだ時が入定です。それから千日後、若しくは3年3カ月後などの定められた日に穴を掘り起こして棺桶を引き上げ、遺骸が即身佛として残っていれば姿形を整え、装束を改めて丁重に祀られるのです。現存する即身佛は古くは南北朝時代の弘智法印から明治=20世紀になってからの佛海上人まで17名も現れていますが、そのうち14名は江戸時代の方です。
余談ながらこの墳墓発掘禁止令が発せられる前後には駆け込みのように即身佛になるべく穴に入った行者もいましたが、官憲による取り締まりによって放置されたため単なる土葬になってしまったようです。以前、某テレビ局が特別番組で明治11(1878)年に入定した新潟市・大円寺の観海上人を発掘しましたが、やはり白骨になっていました。実は野僧も数年前、病気の悪化により体重が48キロまで減少したため、もう一頑張りで憧れの即身佛になれると歓喜したのですが、近所の土建屋さんに深さ3メートルの縦穴を依頼したところ使用目的を確認されて断られてしましました。山形人の坊主としては最高の栄誉だったのですが本当に残念でした。近世の修験道の満願としては即身佛以外にも明治17(1884四)年には林実利(じつかが)行者が那智の滝から投身入定しています。補足すれば江戸時代の修験道には全国各地を巡りながら独特の木彫の佛像を作り、現在も崇敬者が多い真言密教の木喰上人や天台密教の円空上人が出ています。ただし、これらの本当の行者たちは市井に暮らす衆生の目に触れることは希なため俗化した祈祷屋が修験道を意味するようになってしまいました。
ところが明治元年、反乱に成功して政治権力を手中にした公家と薩長土肥(特に毛利藩士)は本来、自然崇拝の素朴な信仰であった神道を平田篤胤が現人神である天皇を唯一絶対視する後に国家神道と呼ばれる日本版ナチズムに変質させた狂気に感染していたため長年にわたり協力して国家鎮護の験を果たしてきた佛教と神道の分離を強行し、それを切っ掛けにして廃佛毀釋の暴風が巻き起こりました。特に神佛融合の信仰形態である修験道は徹底的な弾圧を受け、明治元(1868)年の神佛分離令を皮切りにして明治5年には修験道禁止令が発布されたため信仰を捨てない修験者たちは警察に追われることになったのです。修験宗では真言・天台の密教修験が本寺垂迹説に基づいて諸佛諸菩薩諸天を礼拜していたのに対して両者を対等な存在としていたにも関わらずここまで徹底的に排斥されたのは極めて奇異ですが、明治政府は修験道禁止令の目的を「近代的西洋医学や科学を庶民に普及するためにも加持祈祷に頼る迷信を排除しなければならない」と説明しているものの実際は尊皇攘夷による国粋主義を推し進める上で目障りな存在として血祭りに上げたのでしょう。問題なのは町中で祈祷屋を営んでいていた偽修験者を排斥・弾圧の対象にするのであれば一分の理くらいはあるのですが、真摯に求道して大自然と一体化して、その力を以って衆生済度を行おうとしている本当の行者まで一律に否定したことです。このため幕府によって単立の修験宗として認められていた修験各流派も真言・天台の両宗派に統合され、在家者のまま修験道に身を投じていた行者たちも寺院で出家・得度することになりました。その一方で無理にでも佛教色を廃して改めて教派神道として登録する流派も出現しましたが、欧米がキリスト教の一神教によって国民を思想統制している手法の模倣を狙っていた明治政府が新たな異端宗教の共存を認めるはずがなく、多くは庶民の求めによる加持祈祷や陰陽師式の吉凶占い、神憑りによるお告げなどを理由に摘発され徹底的な弾圧を受けています。
修験宗の本山であった奈良県吉野郡吉野町の金峯山寺は明治元(1868)年の神佛分離令と明治5(1873)年の修験道禁止令を受けて明治7(1874)年に廃寺となり、明治19(1886)年に天台密教に取り込まれることで再興・存続を認められますが、その間に古くから天皇や皇族、公家、武家、豪商、さらに庶民からの崇敬を集め、寄贈されていた膨大な宝物の大半は紛失してしました。不幸中の幸いは現在の奈良県天理市にあった勅願寺・内山永久寺のような堂宇の破壊を免れ、本尊である金剛蔵王権現も無事だったことで、やはり鬼神をも従者とした役行者の大威力に明治政府の意を受けた破壊者たちも畏れを為したのでしょう。しかし、東北鎮護の府であった羽黒山では廃佛毀釋の首謀者の1人であった出羽三山神社の宮司の命により、山内各所の堂宇には鳥居が設けられました。しかし、これでは修験者たちが山中で対話・感得しようにも精霊や魂魄が自由に出入りできない結界になってしまいます。さらに修験者たちを見守り、励ましていた石佛の大半は崖下に蹴落とされてしまいました。
ところがそんな明治政府も憲法を制定することになると態度を一変させます。起草に当たって欧米各国の憲法を調査すると共通理念として「信教の自由(カソリックとプロテスタントの選択)」が謳われており、それが「近代国家に加わるための必須条件である」と説かれたため悪ぶれることもなくそのまま持ち込んだのです。こうして明治23(1889)年に「信教の自由」を盛り込んだ大日本帝国憲法が制定されると修験宗も晴れて復活できたはずですが、真言宗、天台宗、神道に分離・吸収されることで生き延びていた修験者たちにそのような意志はなかったようです。結局、敗戦後の昭和23(1948)年に天台宗から独立して大峯修験宗が成立するまで放置され、昭和27(1952)には金峯山寺修験本宗に改称して現在に至っています。そもそも修験道は他の宗派が徳川幕府の諸宗寺院法度や檀家制度によって立場を保証されてきたのに対して個人が直接大自然の中に自己を投げ入れる修行であって、教団組織の必要性はそれ程感じてはいなかったのかも知れません。野僧は大峯修験の先達と交流がありましたが、いつも「山には死にに逝く」と言って出かけていました。つまり極限状態に自分を追い込むことで丸裸の自分を晒し、その全身に大自然の力を取り込み、全霊を同化させるのでしょう。
それにしても明治政府が真摯な修験者たちまで町中のいかがわしい祈祷屋と一緒に抹殺しようとした暴挙は権力の恐ろしさを自覚していなかった証左であり、そんな国家鎮護の法力を自ら破棄した明治政府が作った大日本帝国が僅か77年でこの国を滅ぼしたのも当然の報いなのです。
「オン・ギャクギャクエンノウバソクアランキャ・ソワカ(役行者の真言)」

古い順に現存する即身佛(入定年、所在地、年齢)
1、弘智法印(貞治2=1363年、新潟県長岡市・西生寺、82歳)
2、弾誓上人(慶長18=1613年、京都市左京区・阿弥陀寺、63歳)
3、本明海上人(天和3=1683年、山形県鶴岡市・本明寺、61歳)
4、宥貞法印(天和3=1683年、福島県石川郡浅川町・貫秀寺、92歳)
5、舜義上人(貞享3=1686年、茨城県桜川市・妙法寺、78歳)
6、全海上人(貞享4=1687年、新潟県東蒲原郡阿賀町・観音寺、85歳)
7、心宗行順法師(貞享4=1687年、長野県下伊那郡阿南町・瑞光院、45歳)
8、忠海上人(宝暦5=1755年、山形県酒田市・海向寺、58歳)
9、秀快上人(安永9=1780年、新潟県柏原市・真珠院、62歳)
10、真如海上人(天明3=1783年、山形県鶴岡市・大日坊、96歳)
11、妙心法師(文化14=1817年、岐阜県揖斐郡揖斐川町・横蔵寺、36歳)
12、円明海上人(文政5=1822年、山形県酒田市・海向寺、55歳)
13、鉄門海上人(文政12=1829年、山形県鶴岡市・注連寺、62歳)
14、光明海上人(嘉永7=1854年、山形県西置賜郡白鷹町・蔵高院、不明)
15、明海上人(文久3=1863年、山形県米沢市・明寿院、44歳)
16、鉄龍海上人(明治14=1881年、山形県鶴岡市・南岳寺、62歳)
17、佛海上人(明治36=1903年、新潟県村上市・観音寺、76歳)

県府別分布
山形県×8名、新潟県×4名、京都府、福島県、茨城県、岐阜県、長野県が各1名

年齢別分類
90歳代×2名、80歳代×2名、70歳代×2名、60歳代×5名、50歳代×2名、40歳代×2名、30歳代×1名 不明×1名

※全員が真言宗で名前の「海」は弘法大師・空海から貰い受けている。
※この他にも存在したが寺院の火災などで火葬になった方もいる。

別枠、無際大師(西暦790年、神奈川県横浜市鶴見区・總持寺、91歳)
※1911年の辛亥革命で中国の寺が放火・焼失したための日本に非難させた。ただし、中国は「略奪された」と主張している。
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  1. 2018/12/01(土) 08:38:27|
  2. 月刊「宗教」講座
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