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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

12月3日・明治6年の1月1日になった明治5年12月3日

明治5年の12月3日は明治6(1873)年の1月1日になりました。と言われても何のことか判らないと思いますが、この日付で日本の暦が太陰暦から太陰暦に替わったため公式な暦の明治5年12月3日が明治6年1月1日になったのです。つまり明治5年の12月は2日間しか存在しません。
現在もアジア各国では公式には太陽暦を採用しているものの民間の伝統行事は太陰暦を継承しており(イスラム教圏はヒジュラ暦)、佛教やイスラム教、儒教や道教に由来する祝日は太陰暦で行われていることが一般的なのですが、日本は軽率にも十分な議論や検討もないまま太陽暦に統一したためいまだに齟齬を来している点が多々あります。
結局、明治新政府は世間知らずな公家と素性卑しい薩長土肥の下級武士たちが権力を握ったため政治と呼べる仕事を為していた高い立場の人物であれば多様な価値観を調整しながら現実的な影響まで勘案して判断を下すような重大事まで単なる思いつきで決定し、妥協を許さず押し通したため現実に適合しないことも無理強いすることが横行していました。
その迷惑を被ったのは宗教界で、明治新政府の表看板である「尊皇攘夷」を利用して廃佛毀釋を推し進めていた神道も各種祭礼が太陽暦になったため五穀豊穣作を祝い、鎮守に感謝を捧げる秋祭りが、その本神が出雲での会議に出席するため不在となる神無月=10月になってしまいました。おまけに太陽暦の10月は台風の時期でもあり、災害除けを鎮守に祈っても神社は留守です。それでも神道は「鎮守は出雲に行っていても氏子のことを忘れている訳ではない」などと詭弁を弄しています。この自然現象を無視した変更は宮中行事まで同様の影響を受けているのですが、父である孝明天皇が討幕を策謀する薩長土肥と公家によって37歳の若さで毒殺されたため十分な教育も受けずに15歳で即位した明治天皇を言い包めることは簡単だったのでしょう。
一方、佛教はそれ以上に大きな迷惑を被っており、日本人にとって最も大切な慰霊行事である盂蘭盆会が破壊されてしまいました。盂蘭盆会は本来、太陰暦の7月15日に勤めていたのですが、明治新政府はその日付のまま太陽暦に移行することを強要しました。しかし、盂蘭盆会は「地獄の蓋が開く」と表現される最も暑い時期に勤めてこその法要であり、地方ではこれを拒否して1カ月遅れにしたのです。これが現在も新盆と旧盆に別れているのですが、太陽暦の7月15日に盂蘭盆会を勤めているのは東京都(多摩地区は除く)や神奈川県内の都市部、金沢市と熊本市、函館市の一部、そして静岡県内で混在しているだけです。つまり東京などの少数派が8月15日にすれば全国統一にできるのであり、実際、西方浄土の手前にある小庵でも8月中旬には帰省する魂魄の団体で賑わっても7月中旬は個人参加の少数派ですから地方の選択が正しいは明らかです。この他にも浄土真宗では宗祖・親鸞聖人の命日である御正忌が東本願寺と越前各派は太陰暦の命日の11月28日を太陽暦に置き換えているのに対して高田派の専修寺と西本願寺では太陽暦に換算し直した1月16日としています。それでも日付そのものに意義を見い出す(語呂合わせなど)日本の精神性から言えば太陽暦に換算して日付を変更するのには賛成できません。
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  1. 2018/12/03(月) 10:23:35|
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