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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

12月6日・本当は偉大な為政者・島津久光の命日

明治20(1887)年の明日12月6日は藩主ではなかったものの藩父(=藩主の父親)として実権を握り、多事多難な幕末を切り抜けた偉大な為政者・島津久光さまの命日です。
山口県では吉田松陰よん(「さん」より落ちる敬称)を唯一絶対・完全無欠の神さまに祭り上げているため(松陰神社の祭神ではある)、実際は数々の勘違いを犯し、極めて思い込みが激しかった松陰よんの独断と偏見がそのまま人物評価になっています。
本来は列強の来航に対する現実的な建策であった「航海遠略策」を提言した長井時庸(ときつね=通称・雅楽)さんもその政治性を松陰よんに毛嫌いされ、幕府による取り調べに際しても積極的な助命嘆願を行わなかったことで悪役のレッテルを貼られ、今では航海遠略策までも内容に関係なく「幕府の延命を図るための裏切り」と批判されています。
一方、久光さまも鹿児島と山形県庄内地方では唯一絶対・完全無欠の偉人である西郷南洲翁(松陰くんよりははるかに傑出した大人物ではあります)とそりが合わず、奄美大島や喜界島に配流していることや英君としての評価が定まっている異母兄・斉彬公との跡目争いでお由羅騒動を引き起こしたことになっているため仇役が定着してしまっています。しかし、斉彬公に跡目を譲ることを拒んでいたのは父親である斉興さんであり、久光さんは国元で権勢を揮う側室の由羅に媚を売る家臣に担がれたに過ぎず、実際は互いの個性=得意分野を尊重し合い緊密に協力して難局に対処していたようです。
また、久光さんは尊皇攘夷過激派を京都の寺田屋で粛清したことも批判の理由にされていますが、毛利藩では敬親さんが松下村塾門下生の暴走を放置した結果、藩士同士の血で血を洗う抗争が頻発し、有為な人材の大半が死亡したため戊辰戦争以降は無能な軽輩者が毛利藩の代表として反乱軍の要職に就き、不要な内戦を拡大させたことを考えるとあの時点で主命にすら従わない暴走族を自ら粛清したのは極めて適切な英断だったのでしょう。
惜しむらくは藩主ではないため折角、斉彬公の貢献によって幕政に参画できるようになっても久光さま自身は加わることが許されず、そこに屈折した思いを抱いていたようです。
久光さまは文化14(1817)年に鹿児島で前述の斉興さんと庶民の娘上がりの愛妾・由羅の間に生まれました。斉彬公とは8歳違いです。
斉興さんは妾の子として生まれた久光さんの立場を格上げするため次々に島津一族の養子にして多くの家門の嫡子としましたが、宗家だけは祖父である重豪さまが幕府に斉彬公を相続人として届け出ていたため何ともなりませんでした。その結果、前述のお由羅騒動が勃発して幕府の介入を招き、斉興さんは強制隠居、ようやく斉彬公が藩主になったのです。
ところが斉興さんは久光さんを藩主とする策謀を諦めず、斉彬公の男子たちは次々に夭折し、斉彬公自身も国元で突然死したのです(毒殺説が公然と語られています)。ところが斉彬公は国元に戻る前に幕府に草光さまの息子を後継者とする届け出をすませており、このため久光さま自身の野望ではないかも知れない藩主の座に飛び越されてしまいました。
久光さまは自分が成立させたとも言える明治新政府の軽佻浮薄な施策には批判的で極端な西洋化を嫌って終生、武士として髷を結い、和服で通したそうです。流石です。
島津久光
みなもと太郎作「風雲児たち」より(ただし、この時点では「忠義」と言う名前だった)
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  1. 2018/12/05(水) 09:49:14|
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