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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

12月8日・自分は運がなかった海軍大臣・山本権兵衛大将の命日

昭和8(1933)年の明日12月8日は草創期の帝国海軍を手作りした偉大なる海軍大臣・山本権兵衛大将の命日です。この名前は島津藩の槍術指南役だった父親が「立派な武将になるように」と願って古代官制の武官の役職にあやかって命名していますから「ごんのひょうえい」と読むのが正しいのです。ところが戦前の新聞は読者の識字力が低いこともあり漢字には読み仮名を振っていたのですが、山本大将に関しては「権=ごん」と「衛=えい」だけで真ん中の「兵」は空欄にして「『ごんのひょうえい』でも『ごんべい』でも好きに読んで下さい」と言う態度だったそうです。
海軍少年だった野僧は中学3年の夏休みに放送された3時間ドラマ「海は甦る」を見て名前を知り、受験勉強を放ったらかしにして人物像を調べたのですがその人間的な魅力と偉大な業績に心酔してしまい、それ以降は「帝国海軍の山本大将」と言われると「山本海軍大臣ですね」と答えるようになり、「(山本五十六は)連合艦隊司令長官で海軍大臣はやってないだろう」と話が喰い違うようになってしまいました。ただし、野僧は確信犯です。
山本大将は嘉永5(1852)年に偉才を大量生産した鹿児島城下の鍛冶屋町で生まれ、文久3(1863)年の薩英戦争には元服前でありながら参戦しています。
明治の政変後は同郷の西郷南洲翁の紹介で勝麟太郎(=海舟)さんの薫陶を受けることになり、そのまま海軍操練所、海軍兵学寮へと進みました。その兵学寮に入校中、品川遊郭に新潟から売られてきた17歳の少女に一目惚れすると初めての客を取る前に同期たちと夜陰にまぎれて築地からカッターで乗りつけて略奪し、そうして知人の家に預けて約5年間、武士=軍人の妻としての躾と教育を受けさせた後、正式に結婚しています。
明治10(1877)年に海軍少尉に任官すると艦長を2回務めた他は軍暦の大半を海軍省で過ごし、鹿児島海軍閥のエースとして西郷従道中将の下で辣腕を揮いました。
中でも創設時に十分な能力の審査もなく集められ、エスカレーター式に要職に就いていた高級士官たちを厳格に判定して予備役編入した大リストラ人事は海外で留学してきた若手士官たちに活躍の場を与える効果を生み、帝国海軍を急成長させたのです。
また当初は海軍省の内部組織として創設されながら陸軍参謀本部に吸収されていた後の軍令部を再び独立させた偉業も山本大将の剛腕なくしては到底為し得なかったでしょう。
そんな山本大将も政治家としては不運続きで第1次内閣は軍艦の発注を巡って海軍士官が賄賂を受け取っていたシーメンス事件で退陣、組閣中に関東大震災に遭遇した第2次内閣は首都圏の復興に目鼻をつけたものの山口県人・難波大助が皇太子=後の昭和天皇を狙撃した虎ノ門事件で辞任することになりました。山本大将には日露戦争を前にして連合艦隊司令長官を日高壮之丞中将から東郷平八郎中将に交代させた理由を天皇に問われ、「東郷は運の強い男です」と答えた有名な逸話がありますが本人は政治運がなかったようです。
前立腺癌で療養中だった山本大将は主治医から妻の方が重篤な末期癌であることを告げられると椅子に座ったまま病床に運ばせ、見詰め合って最期の時間を過ごしたそうです。その妻は同じ年の3月30日に74歳で先立っています。
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  1. 2018/12/07(金) 09:30:45|
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