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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

12月12日・密教的浄土教の大成者・覚鑁が入寂した。

平安時代末期の康治2(1144)年の明日12月12日(太陰暦)にあまりにも巨大な教組を戴いたが故に教学が発展しなかった真言宗に於いて密教と浄土教の融合を図ると共に退廃の極に堕していた金剛峯寺の再生を目指したものの命まで狙われて結局、後の修験宗の本山になる根来寺を創建した興教大師・覚鑁さまが示寂しました。
覚鑁さまは嘉保2(1095)年に肥前国にあった京都・仁和寺の荘園を管理する役職にあった下級貴族の3男として生まれ、8歳の時には出家の志を立てていたそうです。10歳で父親が亡くなるとその人脈を辿って13歳で仁和寺に入り、元服の年齢になった16歳で得度を受け、20歳の時には東大寺の戒壇院で正式な佛戒を受け(比叡山の戒壇は日本限定の大乗菩薩戒)、覚鑁の僧名を得ました。その後、高野山に上って修行・修学に入ると35歳で全ての伝法の灌頂を受け、「弘法大師以来の偉才」と呼ばれるようになりました。鳥羽上皇の病気平癒を祈祷して験(げん)があったことで篤い帰依を受け、高野山内に建立された不動院の開山になっています。
ところが当時の高野山には衣食住が保障される生活のために頭を剃っているだけの(現代では標準的僧侶)下級僧や朝廷や貴族に取り入って高位や権力を獲得することだけを考えている上級僧が跋扈しており、それを宗門のみならず日本の佛教の危機と感じた覚鑁さまは真言宗の再生を決意し、長承元(1132)年に鳥羽上皇の推挙を得て金剛峯寺の座主に就任すると宗制の改革を断行したのです。ところが長年にわたって安穏と暮らしていた僧侶たちは猛烈に反発し、先ずは覚鑁さまの自坊を焼き討ちし、それでもひるまないと今度は生命を狙いました。ある夜、暴徒たちが自坊を失って移り住んでいた不動院に押し入ると1体しかないはずの不動明王が2体になり覚鑁さまの姿はありませんでした。そこで暴徒たちは法力で不動明王に化身していると考えて膝を錐で刺して確認したのです。すると2体とも血を流し、同時に後背の炎が火となって燃え上がり、暴徒たちは惧れ慄いて退散しました。これが有名な「きりもみ不動」の伝説です。
この事態に苦悩した覚鑁さまは保延6(1140)年に弟子と不動明王を連れて高野山を下り、やがて根来寺を成立させます。
覚鑁さまは法然坊源空上人の口称念佛が衆生に広まっている様子を見て密教の立場から浄土教と共生する教義を模索するようになり、それは「阿弥陀如来は密教の根本佛である大日如来が衆生済度の発願に依って化身した姿である」との見解(けんげ)で結実しました。確かに阿弥陀如来は無礙光佛(=無限の光の佛)と言う別称があるように「落日の輝き」を象徴していますから太陽を司る大日如来と融合することには論理的に無理はありません。
覚鑁さまの入寂後、その法脈は高野山とは相容れぬまま修験宗として独自に発展していきましたが天正5(1577)年の秀吉の紀州征討で徹底的に破壊され、江戸時代に復興したものの明治の廃佛毀釋と修験道禁止令で壊滅的打撃を受けました。それでも欧米の憲法にある「信仰の自由」を模倣した大日本帝国憲法の成立により明治33(1900)年には新義真言宗として正式に登録を受理され、現在に至っています。
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  1. 2018/12/11(火) 10:57:07|
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