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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

12月28日・武将の適性がなかったことが幸運?今川氏真の命日

江戸時代が始まって10年以上が過ぎていた慶長19(1615)年の明日11月28日(太陰暦)に守護大名・今川家を継ぎながらも武将の適性がなかったため早々に戦国バトルのリングから退場してここまで優雅に生きながらえた今川氏真さんの命日です。
2017年の大河ドラマ「女城主・直虎」では2代目・尾上松也さんが氏真さんを好演して多少はイメージが上がりましたが、1988年の「武田信玄」では神田雄次さんが思慮分別や度量胆力がない暗君風に演じていました。実際、武田信玄公や徳川家康公が主人公のドラマや小説、漫画などでは格の違いを見せつけるための餌食として描かれることが多いようです。
氏真さんは天文7(1538)年にこちらも死に方が悪かった故に貴族趣味の馬鹿殿の烙印を押されている守護大名にして戦国武将の今川義元さまと信玄公の同母姉である正室の間に生まれました。天文23(1554)年に駿相甲3国同盟が成立すると各家の嫡男と姫を娶(めあわ)せる約定が決められ、氏真さんも北条家の姫を迎えることになりました。
ドラマなどでは義元さまが上洛を企図して西に向かう途中、田楽狭間で織田信長公の急襲を受けて討ち死にしたことで急遽、家督を継ぐことになったようにしていることが多いのですが、史実では弘治2(1556)年に駿河を訪れた公家の接遇を氏真さんが担当しており(公家の道中記では和歌や蹴鞠の才を賞賛している)、永禄元(1558)年には駿河・遠江に対して発刊した文書も現存しているため義元さまは上洛を前に家督を譲り、政務の経験を積ませていたと見るべきであり、実際、桶狭間の直後には動揺を鎮めるため三河の寺社や国人・土豪・商人などに安堵状を送っています。
しかし、氏真さんには乱世の趨勢を見極め、激流を泳ぎ切るだけの適性がなく指南役の祖母も所詮は公家の娘に過ぎず、圧倒的な武力に裏打ちされた守護大名の権威に服従していた領内の国人たちの離反を抑えるには力不足でした。結局、永禄11(1568)年に信玄公の侵攻を受けると国人だけでなく重臣までも寝返り、這う這うの体(ほうほうのてい)で掛川城に逃げ込んで抵抗したものの翌年には家臣と城兵の助命を条件に開城して大名としての今川家は滅びたのです。
ここからが氏真さんの本領発揮で、先ずは妻の実家である北条家を頼り、北条家が武田家と和睦すると掛川城を開城する時の約定で徳川家に移り、家康公の駿河侵攻の旗印になっています。ただし、その後は政治的な文書・記録は残っておらず、天下が収まった天正年間になって浜松城を訪問した公家などの饗応の陪席者に名前が出てくるだけです。それでも泰平の世になれば氏真さんの出番で京都に上って歌人としての評価・地位を得ると子供たちを徳川家に仕官させて最終的には江戸で亡くなりました。
同じように中国・九州北部地方の覇者である大内家を継ぎながら文芸にうつつを抜かして重臣の謀反で殺された大内義隆さんと比べると適性を活かしながら後半生を過ごした氏真さんは幸運だったように思われます。近世では乃木希典愚将も卓越した漢詩の才と謹厳実直な人間性を活かせる教育者になるべきで適性と能力がない軍人として生きざるを得なかったことは本人だけでなく無駄死にさせられた部下にも不運だったのでしょう。
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  1. 2018/12/27(木) 09:29:22|
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