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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

1月1日・長男とは真逆で剛毅な貴族・近衛篤麿公爵の命日

2月8日から日露戦争が始まる明治37(1904)年の明日1月1日はやんごとなき旧五摂家の筆頭でありながら本来は騎士=武門であるヨーロッパの貴族のような剛毅さを発揮して活躍した近衛篤麿(あつまろ)公爵の命日です。
日本の貴族と言うと源氏物語の世界そのままに遊芸と色恋にうつつを抜かしながら地位を権力に代えて姑息な政争に繰り広げている印象が強く、幕末にも毛利藩士を中心とする尊皇攘夷を叫ぶ過激な浪士たちを利用するつもりが利用されて国難に苦慮している幕府の足を引っ張っていた三条実美さんや昭和になって強まった軍部の政治介入を阻止する切り札として登場しながら優柔不断な態度に終始し、最後には無責任に政権を投げ出した近衛文麿(あやまろ)首相のような人物ばかりかと思ってしまいますが、近衛公爵は全く異質な貴族だったようです。ただし、真逆のような近衛首相は長男ですが二男、三男は父親譲りの剛毅な人物なので近衛公爵の長男に対する教育が厳し過ぎたのかも知れません。その近衛首相と二男、三男の生母は違いますが同じ加賀前田家の五女と六女ですから母親の性格を受け継いだとは言い切れないでしょう。
近衛公爵は文久3(1863)年に左大臣であった父と島津斉彬公の養女(実娘として腰入れしていた)の間に嫡男として生まれましたが、明治6(1873)年に父が家督を相続せずに病没したため祖父の養子=6男として10歳で当主になりました。明治12(1879)年に大学予備門に入学したものの病を得て中退し、その後は独学で和漢学や外国語を習得したとされていますが、名門貴族の御曹司で当主なのですから選りすぐりの学者の個人教授を受けたと言うことでしょう。明治17(1884)年に新制度に基づいて公爵(日本の爵位は公・候・伯・子・男の順で最上位)に列せられると翌年にはフランスとドイツに留学してボン大学とライヴィツ大学(どちらもドイツ)を卒業しています。
明治23(1890)年に帰国すると前年に開設された貴族院の議員になり、日清戦争後の明治28(1895)年からは学習院の院長になって皇族や貴族、上流階層の子弟の教育に当たることになりました。近衛公爵はヨーロッパで「ノブレス・オブリージュ」の精神に強く共鳴していて「上流階層に生まれたからには選ばれた者としての責務がある」との信念の下に将来は外交官や軍人として国家のために尽力する人材の育成を進めました。
その一方で政治家としては国家を私物化する薩長土肥に抵抗し、衆議院では表沙汰にすることさえできない政治の問題点を貴族院で徹底的に追及したため、それを抑えようと歴代藩閥政権は入閣を要請しましたが断固拒否しています。
さらに日清戦争後は日本の国力は進展する一方で凋落の一途を辿る清朝の姿に「アジアの一体化を進めなければ欧米の植民地になる」との危機感を抱き、上海に設立した東亜同文院(後の愛知大学)を拠点に相互理解の推進と清朝の内部改革を建策しましたが、日本では「尊皇攘夷」の発想で外国を敵視する薩長土肥の藩閥政治家たちが大陸進出を推し進め、清朝には時代の潮流を見極める眼力がなく、成果を上げる前に大陸で感染した伝染病により47歳の若さで急逝したのです。「日本の新しき朝の光が・・・(愛知大学学生歌)」
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  1. 2018/12/31(月) 10:18:00|
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