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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

1月6日・「壬生義士伝」の主人公・吉村貫一郎の命日

慶長4(1868)年の明日1月6日(太陰暦)は浅田次郎先生の傑作「壬生義士伝」では吉村貫一郎の名前で主人公になっていた新撰組の諸士取扱役兼監察で撃剣師範の本名・嘉村権太郎(よしむらけんたろう)さんの命日です。
野僧は浅田先生が週刊文春に「壬生義士伝」を連載している時、制服を着て乗った名古屋駅から名古屋空港に向かうバスの中で隣りの席になり、先生は元自衛官であることから話が弾み、愛読者であることを伝えると執筆の秘話を語ってくれました。その時の説明では実在の嘉村さんについてはほとんど資料が残っておらず、新撰組の屯所になった西本願寺の従僕から奈良県庁の官吏になった西村兼文さんが明治22(1889)年に著した「新撰組始末記」で取り上げられ、それを下敷きにした子母澤寛さんの出世作「新撰組物語」と「隊士絶命記」で興味を持ち、これらを参考にして「壬生義士伝」の吉村貫一郎の人物像を創作したとのことでした。
「壬生義士伝」は2002年の新春時代劇ドラマになって配役は吉村さんが渡辺謙さん、妻のしずは高島礼子さんでした。翌2003年には映画化されて中井貴一さんが吉村さん、夏川結衣さんが妻を演じました。この映画は2001年に製作する予定だったのですが監督に指名されていた盛岡出身の相米慎二さんが病没したため延期になってドラマの後塵を拝することになりましたが、中井さんの吉村さんは非常に味があり、夏川さんのしずも極めて魅力的だったのでかえって大きな宣伝効果を生んだのでしょう。
実在の嘉村さんは天保10(1839)年に盛岡・南部藩の200石6人扶持の禄をはむ目付の二男として生まれたと言われています。幼少の頃から藩内で鹿島新当流を学んで剣客として名を上げ、文久2(1862)年には藩の重臣に随行して江戸に出て北辰一刀流の開祖・千葉周作さんの3男である道三郎さんの道場に入門しています。
27歳だった慶応元(1865)年に役目を終えて帰国を命じられるとそのまま出奔し、京都に上って新撰組に隊士募集に応募しました。ですから小説、映画、ドラマで描かれている藩校の助教として若者たちを育てる教育者としての姿は事実であれば江戸へ出る23歳までの短期間であり、何よりも妻をめとった記録は見当たらないようです。
ここからは小説も下敷きになる資料があるため史実に沿っているのですが、第1次毛利征討では詰問使として広島に向かう大目付の護衛として随行しており、大目付や近藤勇組長たちが帰京してからも広島に残って情報収集に当たり、慶応2(1866)年の第2次毛利征討では岩国口の戦いで彦根藩と高田藩が惨敗を喫したことを文書で報告しています。
そうして小説のような戦暦を重ねながら迎えた慶応4(1868)年の鳥羽伏見の戦いで戦死したとされますが、伏見にある御香宮神社の戊辰東軍戦死者霊名簿には役職・氏名を付した「1月6日に淀で戦死」との記載があります。なお、前述の西村さんの著書では鳥羽・伏見で重傷を負った嘉村さんは大坂・網島にあった南部藩の仮藩邸に辿りつき、知人だった留守居役に「次は尊皇側に乗り換えるから匿ってくれ」と懇願したのですが「士道を立てて割腹せよ」と諭されて自刃したとしています。映画では落涙率150パーセントの感動的な場面でした。
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  1. 2019/01/05(土) 10:02:30|
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