FC2ブログ

古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

1月15日・東京に警視庁が設置された。

明治7(1874)年の明日1月15日に東京警視庁が設置されました。
幕府の直轄地であった江戸は士分は大目付と目付(身分によって管轄が違った)、寺院と神社=僧侶と神職は寺社奉行、庶民は町奉行所が分担して犯罪を捜査し、治安を維持していました。他の天領地も同様の役職が設けられていましたが天領代官の配下です。
江戸には現在の東京駅付近に南町奉行所と有楽町に北町奉行所が設置され(一時的に補助機関として中町奉行所も置かれたこともある)、月交代で幕閣の町奉行が与力(旗本)や同心(足軽=御家人)を指揮して犯罪を捜査させ、その取り調べから裁判、刑の執行、さらに防疫、公共工事などの諸事を実施していましたが、実際は2から5年で交代する町奉行よりも(大岡忠相さんや根岸鎮衛さんは20年近く務めている)世襲制で実務に精通している与力が取り仕切っており、1年更新契約の隠居するまで雇用であった同心と共に庶民の絶大な信頼を維持して噂レベルの情報も聞き洩らすことなく犯罪の発生を防止していたのです。なお、銭形平次や伝七などの岡っ引きはあくまでも同心の私費で雇われた手下であって正式な捜査権や逮捕権は与えられていませんでした。
そんな江戸は同時代では世界最大の人口を有する大都市でありながら極めて治安は良好で、江戸時代260余年間の犯罪発生総数は現在の東京の1年間を下回ります。ところがそのようにして維持されていた江戸の治安は幕府が倒れたことで当初は無血開城によって占領した薩長土肥に他7つの藩を加えた11藩から差し出された兵員によって編成された府兵で旧・江戸市中の治安を維持することになりましたが、田舎者が大都会に出てきても迷子になるばかりで(この時、門に看板を掲げることが命じられた)、庶民の信用を得ることもできず日本人気質で犯罪が増加することはなくても摘発率は急落したのです。
このため明治4(1871)年には府兵を廃止して旧・与力や同心を再雇用して東京府直轄の取り締まり組を編成すると共に司法省から欧米に派遣され、警察制度を視察してきた島津藩士の川路利良さんに改革を指導させました。翌年、川路さんは治安維持と犯罪捜査を中央政府が掌握することなどを基本理念とする「警察制度改革の建議書」を提出し、その中核である首都の警察組織として内務省直轄の「警視庁」が設置されたのです。
しかし、各道府県の警察組織が「道警」「府警」「県警」であるのなら東京府(当時)も「府警」、現在は「都警」であるべきでしょう。確かに敗戦後、占領軍の公安担当者は日本の警察組織の強大な権限を危険視して内務省が一元的に掌握している幹部警察官の人事や治安維持、犯罪捜査の権能をアメリカの州単位と同様に各道府県に分割する自治体警察制度を強要し、警視庁も解散させられました。
ところが帝国陸海軍とは別組織として創立した自衛隊と違い、警察は軍以上の犯罪行為(特高警察による思想弾圧など)を繰り広げながらもその責任を問われることなく組織や関係職員・人脈は存続していたため占領が終わってからは旧来の組織制度に戻す策謀が始まり、法的な位置づけは他の道府県と変わらず「警察庁」の下部組織であるにも関わらず名称だけは「警視庁」を復活させたのです。
スポンサーサイト



  1. 2019/01/14(月) 12:39:30|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<振り向けばイエスタディ1434 | ホーム | 振り向けばイエスタディ1433>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://1pen1kyusho3.blog.fc2.com/tb.php/5136-703a88c0
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)