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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

現世の維摩居士・梅原猛先生の逝去に慟哭する。

1月12日に在家でありながら釋迦十大弟子を凌駕する境地に至っていた維摩居士のような哲学者・梅原猛先生が逝去されました。93歳でした。
野僧は沖縄で勤務していた空曹時代に先生の著書集「仏教の思想」を購入して時折開いていたのですが先生の巨大な知性に迫るには基礎知識が決定的に不足していて、そのまま死蔵することになりました。その後、転属・入校する先々で各宗派の寺院を訪ねて生き残っていた明治生まれの名僧・傑僧たちの教えを受けるようになり、その著書をもらって読むうちに各宗派の教義を研究するようになったのです。
こうして宗教雑学を蓄積していった頃、防府南・航空教育隊での不当人事で左遷された青森県で暖房嫌いの同居人の命令で氷点下の家で暮らしていたため持病の定期検査を受けると即刻入院することになって前述の「仏教の思想」を熟読する機会を得ました。この頃になると少しは先生の思想も理解することができて疑問、と言うよりも理解が及ばない点ができるとその解決に別の著書も購入するようになったのです。
やがて毎度の悪癖で先生の役職宛てに質問の書簡を送るようになりました。するとご多用中にも関わらず返事を下さるようになり(多くは回答になる書籍の紹介だった)、やがては個人授業のようになっていきました。
実は先生と野僧には妙な機縁がありました。先生の実父は愛知県知多郡の出身で愛知第1中学校(現在の旭丘高校)から名古屋の第8高等学校を経て東北帝国大学に進学し、大正14(1925)年に下宿していた魚問屋の娘との間に生まれたのです。ところが両親は学生であり、結婚していなかった私生児だったため知多郡の伯父の養子にされ、そのまま愛知県で育ちました。梅原家は知多郡の名門で先生は浄土宗系の私立中学の東海中学校(現在の愛知県の私立高校ではトップの東海高校)に入学し、戦時下の昭和17(1942)年に広島師範学校に進学しますが2カ月で退学しています。この時、そのまま在学していれば昭和20(1945)年に被爆した可能性が高いでしょう。翌年、第8高等学校に進学し直し、西田幾多郎先生や田辺元先生に憧れて京都帝国大学の哲学科で学ぶことになったのです。ちなみに大学時代は大学の助教授を退任後、東京でのキャバレー経営を経てトヨタ自動車の重役になっていた実父を頼って岡崎市の矢作に下宿していたそうです。
先生の佛教に対する見識は日本の宗教哲学界の主流を為す佛教系大学の宗門の教義の論理的検証を放棄して優越性のみを誇示する身贔屓とは対極にあり、教義の矛盾や欠陥を率直に指摘し、その上で功罪を評価して肯定的結論に至ると言うものです(あくまでも暗愚なる野僧の理解では)。このため宗祖や高僧が残した著作物の文字面の読解と教条主義的な解釈に終始する宗教哲学者たちとは違って信仰者である衆生の生活態様や宗門から派生した工芸、さらに演芸などに及ぼした影響なども網羅した1つの荘厳な巨塊として読者に提示しておられました。まさに文章や言葉を超えた「不立文字」の真髄を在家の立場から探究されていたのです。心より冥福をお祈り申し上げます。五体投地。
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  1. 2019/01/16(水) 10:17:46|
  2. 追悼・告別・永訣文
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