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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

閏1月23日名寺社奉行・脇坂安菫の命日

天保12(1841)年の閏1月23日は本職を超える専門知識を発揮して辣腕を揮った名寺社奉行・脇坂安菫(やすただ)さんの命日です。
黒衣の宰相・金地院崇伝さまが起草した諸宗寺院法度や諸社禰宜神主法度によって統制されていた江戸幕府の宗教政策は明治以降や戦後と比べてもはるかに優れており、僧侶や神職たちは自分が属する宗教・宗門の戒律を厳格に守り、教義を探求し、奥義に到るべく精進することを課せられて、その実務を監督していたのが寺社奉行でした。
脇坂さんは播磨国龍野藩主です。脇坂家は元来、近江・浅井氏の家臣でしたが機を見るに敏なところがあり、主家を討った織田家に仕え、織田家では羽柴秀吉さんに近づいて賎ケ岳7本槍の1人になっています。そんな豊臣恩顧の外様大名でありながら秀吉さん没後には徳川家康公に忠誠を誓っただけでなく譜代に加えてくれるように懇願して、ついには準譜代扱いを受けることに成功していました。通常、そのような家柄では幕府中枢の役職にはつけないのですが、脇坂さんは眉目秀麗にして頭脳明晰、所作優雅、おまけに博識雄弁だったため11代将軍・家斉公の目に止り、寛政3(1791)年には異例の抜擢で寺社奉行に就任したのです。
脇坂さんが寺社奉行になって10年が過ぎた頃、谷中の延命院の住職・日道(日潤とする説もある)くんは歌舞伎役者の初代・尾上菊五郎の隠し子で元役者と噂される美男子で、説法や祈祷には江戸市中の婦女子たちだけでなく旗本の妻や娘から大名屋敷の女中まで押し寄せ、やがては噂を聞きつけた大奥の奥女中が夜通しの加持祈祷を口実にして参詣し、不義密通を働いていたのです。それを知った脇坂さんは捜査に乗り出し、手駒=囮の奥女中を大奥内での手引きで延命院に参詣させて性行為に及ぶところを自ら乗り込んで捕縛し、斬首にしました。これが享和3(1803)年の「谷中延命院一件」です。
また文化3(1806)年には浄土真宗内の教義を巡る内部抗争「三業惑乱」が発生し、これも双方の代表を相手に一歩も引かぬ論争による取り調べを行い、最終的には本山の見解(けんげ)を退ける裁定を下しました。
そのような脇坂さんも妾を巡る醜聞で辞職に追い込まれ、自領に帰って藩主としての務めに専念していたのですが、将軍・家斉公の命により復職することになりました。これは「谷中延命院一件」以後も大奥の女性たちの同じ手口による不義密通は収まることなく(一番の原因は側室40人に55人の子供を生ませた家斉公の並外れた女好きでしょう)、その摘発を期待されたのですが、今回の業績は虚無僧になってお家騒動を直訴しようとした但馬国出石藩士の取り調べでした。この事件では藩士が虚無僧になったのが宗教的発心によるものか、単なる変装なのかの判断が問題だったのですが最終的に藩士は斬首・獄門に処せられ、武士としての身分さえも否定されました。
これらの功績で脇坂さんは次期将軍・家慶公の側近として西の丸老中に昇進しましたが、在職中に急死したのです。あまりにも唐突な突然死だったため毒殺の噂も流れましたが、74歳でしたから当時としては隠居しているべき高齢者だったのは間違いありません。
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  1. 2019/01/23(水) 10:46:37|
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