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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ1446

中華料理店・青龍は豊橋市高師町の住宅街の一角にある。この日は部活動が休みなので女子ばかりの新入部員たちは自宅やアパートに帰り、衣装選びや化粧などの支度を念入りにしていた。これが男子部員であれば2年生が「新入生は早めに行って会場の準備を手伝え」などの助言を与えるものだが女子大生には少し腰が腰が引けるようだ。それでも本間は「幹事である中央道を手伝おう」とかなり早い時間に会場に向かった。
「ニィハオ。愛大の少林寺拳法部ですが」店の引き戸を開けると本間は大声で挨拶した。こんなに元気が湧いてくるのは高校であの事件に巻き込まれてからはなかった。
「やァ、いらっしゃい」「ニィハオ。ベンジィォン・ユースー」厨房からは店主と思われる初老の男性と中央道が返事をする。中央道は本間の氏名を中国語で呼んだ。それを聞いて店主の妻と思われるエプロン姿の初老の女性が2人の顔を見比べた。
挨拶から始まるのはどの言語の講義でも定番だが、本間は日本人が気軽に使っている「ニンハオ」は実は丁寧語で、普段は「ニィハオ」で良いと知ったばかりだ。
「先輩、割烹着が似合いますね」本間はカウンター席から顔を入れて調理場で炒め物を作っている中央道に声をかけた。大きく重そうな中華鍋を片手で振りながら熱そうな音を立てて野菜を踊らせている中央道は確かに格好が良い。すると奥で材料を切ってボールに入れている店主が苦笑いしながら話かけてきた。
「割烹着ってのは女将さんが着る和風エプロンで俺たちのは・・・ただの調理衣だな」店主の説明に中央道も振り返ったがどうやら知らなかったらしい。ド忘れしたような顔ではない。
考えてみれば虹ノ花高校には食物科があり、調理実習の後には割烹着姿の生徒たちが校内を闊歩していた(衛生管理のため着るまでは密封している)。あの白衣も学校は調理衣と呼ばせていたが生徒は割烹着にしていた。だから呼び慣れている呼称が自然に出てしまったのだろう。
やがて中央道は調理を終えると皿に盛りつけ、冷蔵庫から副菜の搾菜(ザーサイ)の小鉢を取り出してカウンターの前の台に置く。その間に妻が丼(どんぶり)に飯を盛り、一緒に盆に乗せると「お待ちどうさま、ご注文の八宝菜です」と声をかけながら運んでいった。
「それじゃあ2階の大部屋に並べてある机を拭いてくれ」中央道は使い終わった中華鍋を調理場の台の上に置くと本間に指示を与えた。中華料理店では料理別に中華鍋が用意してあってそのまま繰り返し使う。洗うのは店を閉める時だ。
「部屋の掃除は」「前回の宴会の後にやってあるが2週間前だからな」本間の確認に中央道は困惑した顔で答えた。
「それじゃあ、そっちからやります」「でも掃除機を使われては困るぞ」これは適切な指導だ。この店の構造から見て2階で掃除機を使えば1階の店内まで響くはずだ。
「はい、箒で頑張ります」「掃除道具は2階の廊下の突き当たりのロッカーの中だ」「はい」本間は姿勢を正すと顔の前で手を合わせる少林寺拳法の合掌礼をした。
「カンパーイ」「カンペイ」コンパの乾杯の発声も本間と中央道だけは中国語だ。2年から4年生にも中国語学科の学生はいるのだが、読解の方に意識が行っているらしく日常会話で口にすることはないようだ。他の女子学生が目の前に並んだ大皿の中華料理を取り皿に載せている時、本間はビールの瓶とグラスを持って上座の中央に座っている主将の前に出た。
「おう、悟空が来たか」主将はコの字型に並べた長座卓の間に正座した本間を勝手につけた仇名で呼んだ。上下関係が厳格な体育会系の部活動では宴会が始まるのと同時に下級者が地位の高い順に酒を注ぎに回らなければならない。ここでも2年生は新入部員に指導をしなかったのだが本間は中央道から助言を受けていた。上級生の中にも女子部員はいるが彼女たちは新入部員たちが主将の機嫌を損ねることを狙っている節がある(女は怖い)。
「お前の技量は大したもんだ。子供頃からやっていたようだな」「はい、小学生の時に始めました」本間の返事に主将はうなずきながら自分の前の瓶を取った。しかし、本間は自分のグラスを持って来ていない。相手のグラス=盃を渡されて酒を飲むのは特別な儀礼に当たるためこの場合は許されない。本間が正座のまま後退さってグラスを取りに戻ろうとすると座卓越しにグラスが突き出された。それは中央道だった。
「ヨン チュェンガー(これを使いなさい)」講義を受け始めて1カ月弱の本間にはこの簡単な会話は理解できなかったが、仕草で真意を察して「シェシェ、ニン(謝謝、你)」と会釈して受け取った。これで何とか返杯を受けることができる。
「間接キスだな」本間にビールを注ぎながら主将が呟いたが、それは口を魂が出入りする穴と考える日本的感覚で中国を含む外国では回し飲みも普通の生活習慣だ。
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  1. 2019/01/27(日) 10:58:49|
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