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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

2月9日・ロシアの文豪・ドストエフスキーの命日

1881年の明日2月8日はソ連では意図的に無視されていたもののロシアになって今更のように再評価されている文豪・フョードル・ドストエフスキーさんの命日です。
野僧が中学校から高校にかけて聞いていたモスクワ放送ではニコライ・ヴァシーリヴィチ・ゴーゴリさんやレフ・ニコラエヴィチ・トルストイさんについてはピョ-トル・イリノイ・チャイコフスキーさんやセルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフさんなどの作曲家と合わせて紹介していましたが、ドストエフスキーさんの名前を聞くことはほとんどありませんでした。野僧は中学時代にトルストイさんの「戦争と平和」や「アンナ・カレーニナ」とドストエフスキーさんの「罪と罰」や「カラマーゾフの兄弟」を読んでいましたが両者に優劣は感じられず、このソ連の態度が理解できませんでした。
ドストエフスキーさんは1821年にモスクワの貧民救済病院(日本で言えば小石川養生所か?)の医師(赤ひげ先生?)の次男として生まれました。17歳の時、サンクトペテルブルグの陸軍中央工兵学校に入営しましたが、卒業に配属された製図局が性に合わず退職して作家を目指すことになったそうです。勉学が任務である軍の学校では読書にふける時間はないはずですが、どこかで文学に触れて自分の才能を自覚したのでしょう。
1846年に処女作「貧しき人々」を発表すると評論家から激賞されて本人は明るい前途を期待したのですが、そこから先は苦難の道でした。続いて発表した「白痴」「二重人格」は酷評を受け、行き詰っていたところに処女作を激賞してくれた評論家が主催する社会主義団体に加入したことで摘発され、死刑判決を受けました。運よく銃殺刑の執行直前に皇帝から恩赦の命令が届きましたが減刑としてシベリアに流されたのです。ただし、シベリアでも南西部のオムスクだったので日本軍抑留者が味わった極寒零下の地獄ではありませんでした。シベリア流刑は1854年までの4年間に及び刑期終了後には普通の兵士として従軍して1858年にようやくサンクトペテルブルグに帰ることができました。
ドストエフスキーさんは社会主義者として処罰されたことへの改心なのか流刑中にキリスト教的人道主義者に変貌しており、敬虔なロシア正教徒として貧しい人々の困窮・苦境と救済を描くようになり、代表作となる「罪と罰」によって文壇で確固たる地位を得ました。ただし、社会主義を捨てたことでソ連から無視されることになったのでしょう。
ところが根っからの賭博好きのため人気作家としての原稿料も浪費してしまい急場しのぎに無理な契約を重ねて執筆に追いまくられる生活に陥ってしまいました。
ドストエフスキーさんは貧しい人々の困窮・苦境を題材にしていたため、当然のように人々から金を奪う高利貸しや悪徳商人を極悪人として描くようになり、ロシアに限らずヨーロッパ各地でそれを生業としていたユダヤ人を憎悪することになりました。このためナチス・ドイツから高く評価され、宣伝に使われたこともソ連を含むヨーロッパでの評価がトルストイさんに及ばない理由のようです。
ただし、ドストエフスキーさんは女性関係が華やかで、その点だけは「恐妻は夫を哲学者に、悪妻は聖職者にする」と言う真理を遺した恐妻家・トルストイさんに勝っています。
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  1. 2019/02/08(金) 09:50:33|
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