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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

2月14日・新皇・平将門が討ち死にした。

天慶3(940)年の明日2月14日(太陰暦)に中央の収奪に苦しんでいた坂東(ばんどう=関東地方)で武力蜂起し、独立を果たしたとして新皇を名乗った平将門さまが坂東武士団との合戦で討ち死にしました。
平将門さまについては歴史の授業でも素通り状態になる平安時代で「平将門の乱」「藤原純友の乱」と言う名前だけ教えられる扱いだったのでほとんど知識がなかったのですが、昭和51(1976)年の大河ドラマ「風と雲と虹と」で取り上げられたことで藤原純友さんと並んで関心を持ち、毎度の悪癖で研究を始めたのです。「風と雲と虹と」で将門さまを演じたのが気品ある二枚目の加藤剛さんだったためあまり武将としての猛々しさが出ていませんでしたが、将門さま自身も桓武天皇の玄孫に当たりますから血筋から言えば高貴な家柄であり、坂東には似合わない貴公子であっても不思議はありません。
将門さまの生年は記録がないのですが没した年齢が数えの38歳=満37歳とされていることから菅原道真さんが死んだ延喜3(903)年の生まれと推定されています。
父親は前述の通り桓武天皇の曾孫で跋扈する盗賊集団を鎮圧するため坂東に派遣され、下総国佐倉の領主になった平良将さまです。母親は現在も馬追い祭りで有名な相馬(現在の茨城県南部)の豪族の娘で将門さまはこちらで育ったと言われています。
元服した15歳頃、平安京に上って摂関家に仕えたとされていますが、血筋だけで君臨していた公家たちの中では臣籍降下したとは言え桓武天皇直系の貴種なら優位に立てそうなものですが、藤原氏の権勢が確立されていたため単なる田舎者扱いされて12年間も仕えても目ぼしい官位を得ることなく坂東へ帰ったようです。
ところが将門さんが不在にしている間に一族の叔父たちが領土を横領していて、その解決が長引いたことが対立を生み、叔父たちに娘を嫁がせていた関東源氏の暗躍もあって武力での衝突に発展してしまったのです。しかし、将門さんの軍は良質な馬の産地を拠点にしているため機動力に優れ、近代の縦深突破戦術にも通じる奇襲と迅速な方向転換を多用して連戦連勝を重ね、武名は坂東一円に響き渡りました。結局、この抗争は中央の取り調べと仲介で鎮静化したものの度重なる都からの徴税と労役に苦しむ人々を救うため国府の不動倉(年貢を収める倉庫)を襲撃した友人を匿ったことで中央から反逆者と断定されることになったのです。
これを受けて将門さまも坂東の解放を決意し、各律令国府に置かれていた印鑰(国府の公印と年貢を収める不動倉の鍵)を奪い、都落ちしてきた皇族にそそのかされて新皇を名乗りました。ところがそれから2ヶ月後、中央から派遣される追討軍と将門さまが正面衝突すれば戦乱が長期化し、現在の領地を奪われることを危惧した坂東武者たちが自分たちの手で葬り去ろうと追討軍の到着前に合戦を挑んだのです。将門さまは優勢に戦いを進めていながら風に乗って飛んできた矢で額を射抜かれて死んだと言われています。
江戸に幕府を開いた徳川家康公は京都からの独立を目指した将門さまを崇敬しており、祭神とされている神田明神を手厚くの保護したようです。
風と雲と虹と「風と雲と虹と」の討ち死にの場面
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  1. 2019/02/13(水) 10:45:15|
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