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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

2月18日・名天領代官・寺西封元の命日

文政10(1827)年の2月18日(太陰暦)は現在の福島県内にあった幕府天領の代官として卓越した行政手腕を発揮した寺西封元(たかもと)さんの命日です。
寺西さんは寛延28(1749)年に安芸国・浅野藩士の息子として現在の広島県三原市で生まれたと伝わっています。生家の格式・禄高が低かったのか幼い頃に寺に入れられましたが(名門・裕福な家柄であれば養子の口がある)15歳の時に還俗し、田沼意次さまが老中として人材登用を勧めていた安永元(1772)年に西ノ丸(=隠居した前将軍や世継の控え居住区)勤めの幕臣になりました。そうして田沼さまを追い落として後釜に座った白河藩主・松平定信さんが推し進めていた寛政の改革が頓挫する前年の寛政4(1792)年に陸奥国白川郡塙(はなわ=現在の福島県東白川郡塙町)にあった6万石と小名浜(現在の福島県いわき市)の3万石の天領の代官に任命されました。
江戸時代の代官の職は当初、所領の禄高が1万石以上の大名に届かない領主を指しており、大名に準ずる扱いをされていましたが、幕府の行政組織が整備された寛政年間からは勘定奉行配下の任期制になり、比較的小禄の旗本を抜擢するようになりました。小禄の旗本が大名並みの地域を差配する権限を持つため、時代劇では私腹を肥やし、権力を乱用する悪代官が仇役の定番になっていますが、失策や悪評によっても解任されることがあり、そのような悪徳人物は存在し得ない制度になっていたようです。
代官として着任した寺西さんは天明の大飢饉の惨状から立ち直れていない領民を救済するため全力を傾注することになりました。先ず精神面の安定を図るため「天はおそろし」「地はたいせつ」「父母は大事」「子は不憫(可愛)」「夫婦むつまじく」「兄弟仲よく」「職分と出精(=収入と出費)」「諸人あいきょう」からなる「寺西八カ条」と「堕胎と間引きの禁止」「小児育成の解説」を記した「子孫繁盛手引草」を配布すると共に庶民を対象とした寺小屋や塾を開設して教育を進めました(松平さんの白河藩内では庶民の教育・勉学は禁じられていた)。さらに公共事業を実施して給与を分配し、公金貸付によって商工業者に事業を起こさせて大きな実績を揚げました。この民生政策は周辺諸藩の注目を集め、文化8(1811)年と同12(1815)年には水戸藩などが参集して「民風改正要綱」の策定・改定会議が開催されています。
寺西さんは代官としての手腕は幕府にも認められため文化11(1814)年には陸奥国伊達郡桑折(現在の福島県伊達郡桑折町)の3万石の陣屋天領地(藩ではないが城郭を有する)と領内にある半田銀山の管理運営を追加され、さらに川俣の2万石の天領地まで任されることになり、旗本としての家禄は小身ながら松平さんの白河藩11万石を超える14万石の差配を担当していたのです。
その後、文政元(1818)年に勘定組頭に就任して江戸に戻りますが、2年後に桑折の代官に再任され、その地で没しました。78歳の享年は当時としては長命の方なので過労死ではないのでしょう。学校の歴史教育では「江戸時代の農民は搾取されていた」と習いますが、そろそろ討幕を正当化するための虚構は排除するべきです。
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