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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

2月22日・生まれる場所を間違えた俳人・富安風生の命日

昭和54(1979)年の2月22日は生まれる場所を間違えた故に地元では全く評価されていない俳人・富安風生さんの命日です。94歳でした。
富安さんは明治18(1885)年に野僧が修羅・畜生・餓鬼の三悪道のような中学時代を過ごした当時の愛知県宝飯郡一宮町の大字金沢、現在の豊川市金沢町で生まれました。
生まれた頃の金沢は現在の豊橋市だったこともあり、旧制中学校は旧吉田藩の藩校を前身とする現在も東三河で君臨しながら愛知県では上位10位にも入っていない某進学校に入り、そこから旧制第1高等学校、東京帝国大学に進み、卒業後は逓信省に就職しました。
俳句を始めたのは比較的遅く、その切っ掛けは34歳だった大正7(1918)年に福岡貯金支局長として赴任した時、地元の俳人の手ほどきを受けたことでした。翌年、高浜虚子さんが福岡を訪れた時に面会したことで「ホトトギス」に投句するようになり、大正8(1919)年に本省に戻ると東京帝国大学俳句会の結成に関わりました。
その後も作句と投句を続け、昭和3(1928)年には逓信省内の俳句雑誌「若葉」の選者になり、さらに主宰になっています。なお逓信省は後の郵政省なので全国各地に多くの職員を抱えており、省内の雑誌とは言え規模が大きく富安さんの指導によって俳人として世に名を知られることになった人物も少なくありません。ちなみに逓信省=郵政省の俳句雑誌「若葉」の主宰は亡くなるまで富安さんが続けていました。
昭和4(1929)年には「ホトトギス」の同人になり、その頃には逓信次官の要職に就きながらも句作は続け、昭和11(1936)年に職を辞してからは俳人としての生活を始めました。
そんな富安さんの俳句は優等生的であまり個性がなく面白みに欠けると言われていますが、師に当たる高浜虚子さんは「中正・温雅」「穏健・妥当な叙法」と評価しています。早い話が教科書的作風と言うことでしょう。その一方で文芸評論家の山本健吉さんは「山口誓子や中村草田男らは仕事の傍ら行っていた俳句への打ち込みによって余技の域を脱していたのに対して富安風生のそれはどこまで行っても余技として嗜む遊俳の感じがつきまとう」と酷評とは言わないまでも没個性、定型性を揶揄しています。
野僧が中学生だった頃には富安さんは存命でしたが地元では全く名前を知られておらず、中学校の図書室にも出身地近くを流れる用水の川岸に立つ「里川の 若木の花も なつかしく」の句碑の拓本と顔写真が飾られ、富安風生全集が書棚に置いてあるだけでした。野僧はその頃から俳句や短歌、詩が趣味だったため興味を持って借りて読みましたが、図書カードの第1号でした(卒業時に確認すると野僧だけのままでした)。
野僧が高校時代に亡くなっても地元では追悼式や顕彰行事は開かれず、「郷土の偉人」にする気は更々ないようでした。おまけに愚息2の小学校が出身校だったためPTA役員だった野僧が「富安風生記念俳句大会」の開催を提案すると「選者がいない」とにべもなく却下されたのです。余談ながら野僧が持っていた富安風生句作集はスリランカの大学の図書館に寄贈して日本語学専攻の学生たちの俳句研究の教材になっているようです。
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  1. 2019/02/22(金) 10:53:21|
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