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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

2月26日・2.26事件で松尾伝蔵陸軍大佐が身代わりになった。

昭和11(1936)年の明日2月26日に発生した2.26事件で襲撃された岡田啓介首相の義弟でもある総理秘書官の松尾伝蔵陸軍大佐が首相官邸で身代わりになって射殺されました。
松尾大佐と岡田首相は共に父親が福井藩士だったこともあり、岡田首相の妹が松尾大佐に嫁ぎ、その後は陸軍と海軍の違いはあっても心底尊敬の念を持って接していたようです。
松尾大佐は明治5(1872)年に福井県福井市で生まれ、陸軍士官学校の6期生として入営すると日清戦争が終結した明治28(1895)年に卒業し、5月に金沢の歩兵第7連隊で歩兵少尉に任官しました。明治30(1897)年からは台湾の歩兵第3連隊、金沢に新設された歩兵第35連隊に移動し、明治33(1900)年には戦術と体育、音楽を教育する戸山学校に入校しています。明治34(1901)年に歩兵第35連隊で中隊長に就任すると明治37(1904)年に勃発した日露戦争に出陣し、旅順要塞攻囲戦や奉天会戦に参加して戦功を揚げました。日露戦争後の明治40(1910)年に少佐に昇任して金沢の歩兵第7連隊の大隊長になり、以降は中佐、大佐への昇任に合わせて福井県の鯖江や宮崎県の都城、栃木県の宇都宮に転属し、大正8(1919)年には宇都宮から歩兵第59連隊長としてシベリア出兵を命ぜられています。
1年半のシベリア出兵を終えて帰国すると大正10(1921)年に予備役に編入されたため福井に戻って福井市議会議員や社会教育長、在郷軍人会会長などを務めていましたが、昭和9(1934)年に尊敬する義兄の岡田啓介大将が内閣総理大臣に就任したため総理秘書官として影で支えることになりました。
岡田首相は常識的に政権を運営していましたが、美濃部達吉東京帝国大学名誉教授による天皇機関説が政治問題化したことで、これを強く批判しなかった岡田首相個人も支持者と看做され、皇道派の過激派将校たちから敵視されることになったのです。
そうして迎えた2.26事件での最期は小説、映画やドラマによって描写が異なっていますが、生還した岡田首相の回想録では栗原安秀中尉が指揮する襲撃部隊は警護の警察官4名を殺害した後、日本間にいた松尾大佐を発見して中庭に引き出すと機関銃で射殺したとのことです。事件後の検屍では全身に弾痕無数、15発以上の弾丸が残っていて即死状態だったにも関わらず頸部を切りつけてトドメを刺してあったと言います。
射殺後、襲撃部隊には遺骸が岡田首相本人なのかを確認できる者がおらず、「深夜に首相官邸に滞在している老人は岡田首相しかいない」と言う推察で断定し、さらに居間の欄間に掛けてあった岡田首相の写真を下ろすのに銃剣で突き刺したため額が割れて顔の中央部が判別不能になり、それで事実誤認のままになって翌日の脱出が成功したのです。
実際は岡田首相が慶応3(1868)年、松尾大佐が明治5(1874)年生まれと6歳差でも岡田首相の頭は5分刈り、松尾大佐は禿げあがっており、容貌も岡田首相は下膨れなのに対して松尾大佐は頬が締まった丸顔なので似たところはなかったのですが、襲撃目標の顔すら確認していなかった計画の杜撰さを露呈する結果になりました。
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  1. 2019/02/25(月) 10:09:11|
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