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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

第76回月刊「宗教」講座・島津藩による浄土真宗禁教

江戸時代の宗教弾圧と言うと切支丹(キリシタン)ばかりが取り上げられ、長崎県は観光客誘致の材料として関連史跡の世界遺産登録を強行しましたが、島津領内(現在の鹿児島県と宮崎県、熊本県の南縁部)では門徒=浄土真宗も禁教され、同様の宗門改めによって発覚すると磔刑を含む厳罰に処せられていたのです。ただし、鹿児島県の歴史研究者の間でも禁教に至った経緯だけでなく時期や発令者も明確になっておらず、それなりにもっともらしい理由から発令者を割り出して、その人物から推定した時期が伝承されているに過ぎません。このため江戸時代後期の島津藩士の歴史家である清水盛香さんは「御家にて一向宗禁止の儀は、いかなる故ということ、さだかに知れる人なく」と諦めており、同じく島津藩随一の考証家と称されている伊地知季安さんも著書「御当家就一向宗禁制愚案下書」の中で「決め手となる理由が見つからない」と嘆いているくらいです。伝承の中で比較的信憑性が高いとされている経緯としては豊臣秀吉さまが天下に覇を唱えてからも服従しなかった島津藩を追討するため九州に出兵してきた時、秀吉側についていた本願寺は島津領内の門徒に指示を与え、頑強に抵抗していた国境の山岳地帯を避けて天草から出水、川内に迂回する経路で側面攻撃をさせて戦況を一挙に悪化させたと言うものがあります。つまり門徒は主君・領主よりも本願寺に忠誠を尽くす裏切り者であり、今後のために領内では根絶しにしようとしたと言うのです。また同じく秀吉による島津追討後に調停役を担った一族の伊集院忠棟さんが交渉の裏で「島津領を二分割して大隅側を受け取る」と言う密約を結んでいたとする如何にも有りそうな疑惑も伝わっています。実際、伊集院さんは領主となった家久さまに手討ちにされているので史実として信憑性はあるのですが、この伊集院さんが熱心な門徒であったため再発防止として禁教にしたと言うは「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」式の八つ当たり的な処置であり、流石にこれでは家中の門徒たちは納得しないでしょう。実際は秀吉さまの九州侵攻以前にも北陸や東海、近畿、さらに関東でも頻発していた一向一揆を脅威に感じていた各地の領主たちは家中での禁教に手をつける者が多く、島津家もそれに倣ったと見るのが常識的な推察のようです。確かに浄土真宗でも本願寺は門主が下女に手をつけて生ませた蓮如聖人が実験を握ってからは極端に政治的立ち振る舞いを画策するようになり、内部抗争だけでなく領主や土豪との間の武力闘争、いわゆる一向一揆を常態化するようになっていたので警戒するに越したことはなかったのでしょう。
具体的に浄土真宗の禁教が明文化されているのは豊臣政権下で領主となった義弘さまが朝鮮に出陣する際に留守中の政務について記した文書で、それには「一向宗の事、先祖以来御禁制の儀に候の条、彼(かの」宗体に成候者は曲事(くせごと=違法)たるべきこと」とあります。この文書で判ることは桃山時代末期の島津家中では浄土真宗の禁教がすでに国法化していたことです。それでも歴史研究者たちは「当時の風潮に同調した」で片づけることには納得せず、どうしても島津家独自の宗教弾圧にしたいようで、その言い出し屁の適役として島津家切っての偉材(領主にはなっていないため「名君」ではない)である忠良さん=日新公を担ぎ出す向きもあるようです。その根拠としているのが「魔のしょゐか てんけんおかみ 法華宗 一かうしゅうに すきの小さしき」と言う道歌です。これに漢字を当てると「魔の所為か 天元お神 法華宗 一向宗に 好きの小座敷」となり、このうち「天元お神」とはキリスト教、「法華宗」は日蓮宗、「一向宗」は浄土真宗、「好きの小座敷」とは茶道のことです。つまり武将にしては珍しくストレス発散のリフレッシュ効果以外に現世の用には立たない曹洞宗の黙照禅を愛好していた日新公は日蓮聖人が他宗を口汚く罵った「念佛無間 禅天魔 真言亡国 律国賊」と言う法語を逆手にとったパロディー道歌で当時、流行していた信仰や精神修養を批判したようです。ただし、この道歌を根拠に日新公が島津家で浄土真宗の禁教を命じたと断定するのは不適切です。と言うのも日新公以降の島津家では豊臣秀吉さまによる切支丹迫害や島原の乱によって取り締まりが厳しくなった島原や天草から逃れてきた切支丹たちを受け入れて匿っただけでなく、入植者として奄美大島などの離島へ集団移住させているからです。実際、奄美大島北部には「廃佛毀釈によって佛教が否定されたため替りの信仰として村民が揃ってカソリックの洗礼を受けた」としている幾つかの村落が存在しますが、普通の日本人の感覚ではそのような理由で村中が揃って外国の宗教に入信するとは考えにくくキリシタンの入植者による信仰の継続が背景にあったと考えるのが自然です。
また現在、種子島に寺院は22ヵ所ありますが、このうち18ヵ寺は日蓮宗、4ヵ寺は明治になって建立された浄土真宗です。野僧が種子島の日蓮宗の寺に問い合わせたところでは江戸時代にも特別な迫害は受けておらず、日蓮宗を対象とした宗門改めなどは行われていなかったそうです。さらに島津家歴代の領主と藩主は茶道を嗜んでおり、島津義久さまは秀吉さんの時代に上洛すると「必ず」と言って良いほど利休さんの茶会に加わっており、その弟の義弘さんに至っては人質として京都に滞在している間に千利休さんから熱心に茶道を学び、「奥義に達した」との免許を授かっています。ついでに言えば現在の裏千家の鹿児島支部長は島津家の現当主が務めています。さらに義弘さまにとって日新公は祖父に当たり、これを「先祖」と呼んでいることにも少なからず違和感を覚えます。つまり日新公の道歌自体は浄土真宗を禁教する根拠とはなり得ず、おそらく必要に迫られた別の具体的な理由があったのでしょう。
島津家の家臣団は関ヶ原の合戦で西軍の敗北が決定的になった中、一丸となって包囲する東軍の中央突破を図り、各個に置き去りになって追撃を食い止め、大将の島津義久さまを逃した故事を以って極めて忠誠心が強いと思われていますが実際は内部抗争が絶えず、お由良騒動の例を引くまでもなく他藩の主君以上の強権を以ってする徹底的な取り締まりと過酷な弾圧が繰り返されていたのです。したがって島津家が浄土真宗を禁教した本当の理由は「織田信長公をして手を焼いていた石山本願寺の一向一揆が家中に飛び火することを危惧した」と言う口実の下に、家臣や領民の間で信者が増え続けている浄土真宗を禁ずることで各人の中で領主・藩主に対する忠誠心と信仰心を天秤に掛けさせることが当初の目的だったのではないでしょうか。さらに島津藩は江戸から最も遠方でありながら蝦夷地の松前藩、本州最北端の津軽藩のような小藩ではなく77万石の大藩としての家格を維持した参勤交代を繰り返さなければならず、その上、幕府が外様大名を弱体化させるために大規模な工事を押しつけていたため慢性的な貧乏藩になっていました。ところが禁教にも関わらず増え続けている隠れ門徒たちは年貢よりも本山への上納金を優先して内密に送金しており、しかもそれを参勤交代の家臣が携帯していることが発覚したため取り締まりを強化・徹底せざるを得なくなったと言う推理もあります。実際、その危機的財政難を切り抜けるための荒療治を断行したのが調所笑左衛門さんであり、浄土真宗への禁教強化を藩主・斉興さんに強く意見具申したのも調所さんであったとする記録が残っています。
島津領内に浄土真宗がいつ頃に伝わり、どのように広まったのかは明確になっていませんが、足利八代将軍・義政公の時代である文明3(1471)年に日向国美々津(現在の日向市)の正覚寺の住職・敬西坊が天台宗から浄土真宗に宗旨替えして(おそらくこの僧名は改宗後に名乗ったもの)薩摩や大隅にも布教に訪れたと言うのが確認できる最も古い記録のようです。他には戦国時代も後半に差し掛かった頃の本願寺の門主・実如さんが薩摩国千野湊の釋明心と言う門徒に与えた方便法身尊像(阿弥陀如来の立ち姿を描いた掛け軸)があり、裏書には「大谷本願寺釋実如(花押)」と「方便法身尊像・永正3年丙寅2月19日・薩摩国千野湊・願主釋明心」と記されています。「永正3年」は西暦1506年であり、「薩摩国千野湊」は現在の鹿児島県日置市日吉町帆の港と推察されています。一部には日向国との国境である串間千野とする説もありますが、門主が有力な門徒に与える方便法身尊像に揮毫する際、律令国名を誤るとは考えにくくやはり前者が正しいのではないでしょうか。
豊臣秀吉さんが死ぬ前年で関ヶ原の合戦の4年前に当たる慶長2(1597)年に島津家は正式に浄土真宗を禁教しました。前年の12月19日(太陰暦)には長崎の西坂の丘で26名のキリシタンが磔刑になっていますが関連性は不明です。ただし、関ヶ原での敗戦でそれどころではなくなったため取り締まりの法度の次第や組織を整えるのに時間を要し、本格的に摘発が行われるようになったのは37年後の寛永11(1634)年になってからです。この時は日向国山之口(現在の宮崎県北諸原郡)の郷士4人が門徒であることが発覚して、武士の身分を剥奪されて農民として別の地に移住させられています。島津藩では翌・寛永12(1635)年には住民の宗旨や名前を記した木製の札を配布し、5年に一回検断(事実の確認と処罰)する宗門手札改め制度を導入し、キリシタンと同様の取り締まりを始めました。寛永15(1638)年には鹿児島城下の横目(武士の取り締まりを担当する役人)に宗門監察の権限を与え、寛永20(1643)年にはキリシタンと浄土真宗の取り締まり専従の横目を置き、領内を巡回させるようになったのです。しかし、慶安2(1649)年に異国方宗門方だった島津久慶さんに島津領内で浄土真宗の布教を行っていた僧・真宅が近づき、京都や江戸で浄土真宗興隆のための協力者を募り、島津家の禁教を口汚く批判したことが発覚して磔刑となり、久慶さんも死後、島津家一門から存在を抹消されることになりました。当時の寺院は世襲制ではなかったため他の地域で修行した僧侶を招聘することが多く、自分の宗門とは別に浄土真宗にも染まっていることも無きにしも非ずでした。これを受けて明暦元(1655)年には宗体座(後の宗門改所)を置いて宗門奉行(後の宗門改役)を任命し、藩の重要案件として取り締まりに本腰を入れていきました。
摘発を受けると藩士や郷士は武士としての身分を剥奪されて農民にされ(藩士は家禄を失った上、年貢を納めることになる)、離島や荒れ地の開拓者として移住させられたのですが、やがては改宗しても宗門手札に「前一向宗」と記入されて前科者=要注意人物扱いされることになりました。さらに島津藩は「自首すれば罪を免ずる」として自主的な改宗を勧める一方で、隠れ門徒を装った密偵を放ち、信者の秘密組織である「講」を見つけ出すと「走り込み改め」と呼ばれていた不意急襲の摘発を行いました。これを隠れ門徒たちは「法難くずれ」と呼んでいましたが、宗教弾圧はかえって信仰心を頑なにし、組織を固める逆効果を生ずることも多く、島津藩領内の門徒たちもその方向に進んで行ったのです。天保年間に摘発された講は70、隠れ門徒は14万人、押収された方便法身尊像は2千幅以上とされており、江戸時代の島津領民の人口が80万人とされていることを考えると俄かには信じ難い数ですが、本願寺に残っている島津領内の講からの上納金の記録でも門徒数は17万人とあり、この人数は布教実績である一方で上納金にも反映されますから過剰申告とは考えられず、実際に藩士、郷士を含むかなりの隠れ門徒がいたことになります。現在、鹿児島県内の寺院の宗派は単立寺院を除き系列で分類すると浄土真宗が292ヵ寺と66・2パーセントを占め、続いて種子島に多い日蓮宗が43ヵ寺、真言宗が42ヵ寺、臨済宗が29ヵ寺、曹洞宗が18ヵ寺、浄土宗が14ヵ寺、天台宗が二ヵ寺、時宗が一ヵ寺なので、この比率から推察すると過半数の藩士と領民が隠れ門徒だったと言うことになります。これらの門徒は寺ではなく洞窟や講の長(おさ)の屋敷の土蔵などで密かに念佛の法要を営んでいたようで、現在も九州本土の島津領と上・中・下甑島に残っています。
こうした隠れ門徒たちに解放をもたらしたのが「尊皇攘夷」を旗印にして討幕を強行しておきながら欧米の後ろ盾と外国製の近代兵器で勝った以上、「攘夷」は実行できず、その言い訳のように薩長土肥と公家が起こした「廃佛毀釋」でした。この凶風は他の地域では広く佛教寺院と僧侶に向かって吹き荒れましたが、島津領内では既成の寺院と僧侶を消し去った後、前述のように浄土真宗寺院と僧侶が湧き出しました。中でも曹洞宗は島津家の宗旨ですが、明治2年には歴代藩主の墓所がある菩提寺の福昌寺も門徒たちの手によって土台を残して破壊され尽くされています。当時、実質的に討幕の発令者であった島津久光さまは鹿児島に住んでいたのでその模様を間近で見ていたはずです。所詮は指導者と能力を買われた人たちが東京に出ていた後に取り残された脱落者たちですから鬱憤晴らしもあったのでしょう。没後は神道で祀られている桂小五郎の生家が門徒であったことは菩提寺に位牌が残っていることでも明らかですが、同様に過度な厳格さで万事を選別し、反対意見や異なる価値観を排除して唯一絶対式に徹底を図った大久保利通さんの人間性も浄土真宗の宗風を感じさせるところがあり、実は隠れ門徒だったのかも知れません。南無十方三世一切諸佛

鹿児島県内の各市町村の寺院の宗派(系列の宗派を含み、単立寺院は除く)
鹿児島市
浄土真宗×33。真言宗×12、浄土宗×2、臨済宗×4、曹洞宗×6、日蓮宗×6、時宗×1
鹿屋市
浄土真宗×13。真言宗×3、浄土宗×2、曹洞宗×1、日蓮宗×1
枕崎市
浄土真宗×7。真言宗×1、日蓮宗×1
阿久根市
浄土真宗×7。臨済宗×1、曹洞宗×1、日蓮宗×1
出水市
浄土真宗×9。真言宗×2、浄土宗×2、臨済宗×7、曹洞宗×2、日蓮宗×1
指宿市
浄土真宗×10。真言宗×4、浄土宗×2、曹洞宗×1、日蓮宗×1
西之表市と熊毛郡中・南種子町=種子島
浄土真宗×4。日蓮宗×18
垂水市
浄土真宗×6。浄土宗×2
薩摩川内市
浄土真宗×45。真言宗×4、臨済宗×2、曹洞宗×2、日蓮宗×2
日置市
浄土真宗×19。真言宗×4、臨済宗×1、曹洞宗×1
曽於市
浄土真宗×12。天台宗×1
霧島市
浄土真宗×13。真言宗×2、浄土宗×2、臨済宗×3、日蓮宗×1
いちき串木野市
浄土真宗×6。真言宗×1、臨済宗×4、曹洞宗×1
南薩摩市
浄土真宗×22
志布志市
浄土真宗×5。真言宗×1、臨済宗×1、日蓮宗×1
奄美市
浄土真宗×1。日蓮宗×1
南九州市
浄土真宗×22
伊佐市
浄土真宗×10。真言宗×1、天台宗×1、日蓮宗×1
姶良市と姶良郡
浄土真宗×13。真言宗×1、臨済宗×2
薩摩郡
浄土真宗×9。真言宗×4、臨済宗×1、曹洞宗×1
出水郡
浄土真宗×6。臨済宗×3、曹洞宗×2
曽於郡
浄土真宗×3
肝属郡
浄土真宗×12.真言宗×2、浄土宗×2
熊毛郡屋久町=屋久島
浄土真宗×5。日蓮宗×8


浄土真宗×292
真言宗×42
浄土宗×14
臨済宗×29
曹洞宗×18
日蓮宗×43
天台宗×2
時宗×1
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  1. 2019/03/01(金) 11:15:27|
  2. 月刊「宗教」講座
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