FC2ブログ

古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

3月6日・ドイツ海軍を建設した軍政家・テルピッツ元帥の命日

1930年の明日3月6日は大陸国家であるドイツに本格的な海軍を建設した軍政家であるアルフレート・ペーター・フリードリヒ・フォン・ティルピッツ元帥の命日です。
島国の住人である日本人は中国や朝鮮半島の海軍が大して脅威にならないため(元寇を除く)「大陸国家には海軍を建設・運用する素養がない」と思い込んでいるところがありますが、大陸国家の代表である帝政ロシアの極東艦隊は日露戦争において神出鬼没な奇襲戦術で朝鮮半島への補給路を遮断し、形勢不利と見るや旅順港に籠城して交戦を回避するなどイギリスやアメリカの艦隊決戦主義とは異なる作戦を展開しました。何よりも1803年から1806年にかけてアダーム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルン提督が世界を一周した偉業を継承してバルト海からユーラシア大陸とアフリカ大陸を回って極東までバルチック艦隊を派遣する恐るべき遠洋航海能力を発揮しています。したがって結果的に圧勝したからと言ってロシア海軍を過小評価するべきではありません。同様にドイツ海軍も第1次世界大戦では巡洋艦・エムデン以下の東洋艦隊がインド洋でイギリスの植民地の港湾施設を艦砲射撃によって破壊する一方で、ヨーロッパ方面ではイギリスとの直接対決を避けて潜水艦・Uボートによる通商破壊を展開して連合軍を苦しめています。
そんなドイツ海軍を建設したテルピッツ元帥は1849年にプロイセン王国領だった現在のポーランド領のコストシン・ナド・オドロンの上級官吏の息子として生まれました。間もなく現在のドイツ領のフランクフルト・アン・デオ・オーデルに転居して育ちましたが、どちらも内陸部で近くに海はありません(現在は国境で隔てられているが距離は近い)。
ところが1865年にプロイセン海軍に入営し、1869年に海軍士官学校を卒業して間もない1871年にドイツ統一が成立すると新設のドイツ海軍に移りました。そうして1892年に軍令部長に就任して少将に昇任すると1896年に租借地である清の青島での東洋艦隊司令官を経て、1897年に帰国すると海軍大臣=軍政家としての道を歩み始め、ドイツ海軍を対岸の海洋の覇者・イギリス海軍に対抗し得る海洋戦力とするべく青写真を描くことになりました。この青写真は「テルピッツ計画」と呼ばれ、皇帝の信任の下、次々に推進されて第1次世界大戦の開戦時にはイギリス海軍の6割=弩級戦艦7隻、巡洋戦艦5隻、巡洋艦21隻、潜水艦40隻以上の艦艇を有する大海軍になり、その功績により1911年には元帥に列せられています。
この海軍建設に当たりテルピッツ元帥は「ドイツが海軍力を強化すればイギリスの大陸進出を抑止できる」と考えていたのですがイギリスはこれに強烈な対抗意識を燃やし、おまけに1870年から1871年の普仏戦争で敗北したフランスも切実な危機感を抱いたため、それがドーバー海峡を挟んだ同盟関係に発展し、ドイツとオーストリアVSイギリスとフランスと言う第1次世界大戦の配役を決定する結果を招きました。ただし、第1次世界大戦では勝者による戦犯裁判がなかったため収監などはされずに平穏に没しています。
なお、ナチス・ドイツが1939年に建造したビスマルク級戦艦の2番艦はテルピッツと命名されました(1944年11月12日に空襲により横転・着底)。
スポンサーサイト



  1. 2019/03/05(火) 09:57:56|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<振り向けばイエスタディ1483(かなり実話です) | ホーム | 振り向けばイエスタディ1482>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://1pen1kyusho3.blog.fc2.com/tb.php/5235-f04628f6
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)