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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

3月10日・鎌倉の鶴岡八幡宮の大銀杏が倒れた。

2010年の明日3月10日の午前4時40分頃に鎌倉の鶴岡八幡宮の石の階段の脇に立っていた樹齢800年から1000年と言われる大銀杏が強風のため倒れました。
鶴岡八幡宮は現在の大阪府羽曳野市を拠点としていた河内源氏の2代当主である源頼義さんが朝廷の命によって奥州へ侵攻する際、戦勝祈願のため京都の石清水八幡宮護国寺、若しくは河内源氏の氏神である壷井八幡宮を康平6(1063)年に鎌倉の由比郷の鶴岡に勧進したことを起源として、それから100年余り過ぎた治承4(1180)年に鎌倉を平家との戦いの拠点と定めた源頼朝公が現在の場所に遷座しました。
頼朝公は元暦2(1185)年に平家を滅ぼすと鎌倉の市街地の整備と並行して社殿の造営を進めたのですが、建久2(1191)年に社殿が焼失したことを受けて現在の本宮と若宮に分離・再建して石清水八幡宮護国寺を勧進し直したのです。なお承元2(1208)年には僧坊である神宮寺も創建されています(明治の廃佛毀釋で廃寺になった)。
その後は徳川幕府の日光東照宮のように鎌倉幕府の精神的拠点として武士たちの崇敬を集めましたが、建保7(1219)年1月17日に八幡宮拝賀の祭礼を終えて石段を下りてきた3代将軍・源実朝さまが銀杏の影に隠れていた甥(2代将軍・頼家さまの息子)で鶴岡八幡宮の別当になっていた公暁くんに襲撃されて首を討たれたと伝承されています。しかし、2尺を超える大雪の中とは言え当時の銀杏はまだ若木に過ぎず、公暁くんが身を隠すには幹が細く、史実としては少し無理がありそうです。そもそも鎌倉幕府の公式日誌である吾妻鏡にはそのような記載はなく、江戸時代になってから語られるようになった昔話なので、後世の創作の可能性の方が高そうです。
この事件は頼家さまが素行不良を理由に退位させられた上、元久元(1204)年に幽閉されていた修禅寺で暗殺されたのは「弟の実朝さまを溺愛する実母の政子さんと実家の北条家の共謀だった」と何者かに耳打ちされた公暁くんの逆恨みだったと言われています。
この拝賀の祭礼自体が右大臣就任の報告と感謝が目的であり、その地位は頼家さんよりも上位でしたから公暁くんの逆恨みにも状況証拠があり、さらに政子さんは後鳥羽上皇の乳母と子供がいない実朝さまの後継者として皇族の男子を下向させる約束をしていたとの噂も広まっていたようです(その後、現実になっている)。こうなると血筋から言えば4代将軍になるべき公暁くんを祖母が排除したと受け止めても不思議はありませんでした。
そもそも北条家は栄華を誇った伊勢平氏以上の平氏の嫡流であり、拝賀の直前に執権・北条義時さんが随行役を源仲章さんと代わっていることもこの事件を歴史推理サスペンスにしています。古くから歴史愛好者の間では源氏を滅ぼして平氏の政権奪取を狙った北条氏、北条氏の権勢を妬んだ三浦氏(公暁くんが逃げ込もうとした)、さらに後に承久の乱を起こす後鳥羽上皇などが黒幕として語られてきました。
倒れた大銀杏は推定30メートルの高さがありましたが、根元から4メートルと7メートル、その上の3つに切断され、4メートルの部分は元の位置から7メートルずらして植樹されて現時点では若枝を出すなど再生しているようです。
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  1. 2019/03/09(土) 11:33:20|
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