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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

3月13日・手強過ぎた交渉相手・ヴィッテ全権代表の命日

1915年の明日3月13日は日露戦争の講和条件を話し合ったポ-ツマス会議のロシア側全権代表だったセルゲイ・ユリエヴィッチ・ヴィッテさんの命日です。
今でも日本人は日露戦争を「日本が大国ロシアに勝利した=明治の政変の成果」と思っていますが、帝政ロシアにとって満州は中心地であるヨーロッパから遠く離れた極東の他国領であり、食指を伸ばして派遣した部隊が局地戦で敗北したに過ぎませんでした。
しかし、当時の日本人も「ロシアに勝った」と思い込んでおり、唯一のマスコミであった新聞各紙も日清戦争以上の賠償金を獲得できると国民の欲望を湧き立てていました。そんな重圧を背負いながら交渉に当たった小村寿太郎外務大臣の交渉相手がヴィッテ全権代表だったのです
ヴィッテさんは1849年に現在のグルジアのトビリシでオランダ人の技術者の父親とロシアの貴族出身の母親の間に生まれ、恵まれた環境の中で高等教育を受けて1870年にはオデッサ大学の物理・数学科を卒業すると皇帝・アレクサンドル3世に見い出されて官僚になり、財務省の鉄道事業局長官として頭角を現すと1892年には運輸大臣、兼務で1902年まで財務大臣を勤め、ロシアの工業化を推進しています。
政治家としてのヴィッテさんはドイツの経済学者・フリードリヒ・リストさんの影響を受けており、酒類の専売制や保護関税を採用するなどの国家が市場に介入する経済政策を採用し、金本位制の確立やシベリア鉄道の建設、外資の積極導入などにより帝政ロシアを農業国から工業力・経済力を備えたヨーロッパの一流国に成長させました。ただし、工業重視の政策に目を向け過ぎていたため農業の改革は立ち遅れ、地主に農奴が酷使される中世以来の農場経営が存続することになり、これが1917年に勃発するロシア革命の原因になったのです。それでも改革案は策定しており、ソ連共産党が自作として採用しました。
そのように多大の成果を挙げたヴィッテさんですが宮廷内での立場は微妙でした。ヴィッテさんは外国資本を誘致するためには市場開放が必要であることを認識しており、専制君主である皇帝の絶対的な権限の抑制を徐々に進めていたのですが、これを一部の側近が悪意に基づく曲解で耳打ちしたことで心証を害し、1903年には財務大臣からお飾り的な名誉職である大臣会議議長に栄転=左遷させられています。
1904年に始まった日露戦争については国内で飢饉が発生していることを危惧して強く反対しましたが対日強硬派の側近によって妨げられ、ロシア軍の劣勢が確定的になった時点で再び登用されると1905年のポーツマス会議の全権代表に任命されました。ポーツマス会議では日本が軍事的にも経済的にも継戦能力を喪失していることを見抜き、常に高圧的で強行な姿勢で議論を進め、ロシア国内から持ち出す物は何もない単なる停戦と言う形で終結させました。小村さん、本当に御苦労さまでした。
その後は革命前夜のロシアで政治の近代化を担うことになり、新設された内閣制度の下での初代首相に就任したのですが議会の承認を得られず辞任。1914年に勃発した第1次世界大戦への不介入を願いながら脳腫瘍が悪化して亡くなりました。65歳でした。
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  1. 2019/03/12(火) 10:44:05|
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