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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

4月13日・これぞ佐賀人?江藤新平が斬首された。

明治7(1874)年の明日4月13日に倒幕=体制破壊にしか興味や才能を持たない毛利藩や島津藩出身者とは別に新政府の形を整えるための施策を次々と提案し、実現していた江藤新平さんが「佐賀の乱」の首謀者として斬首されました。
佐賀県人は「鍋島藩は西国諸藩でも特に藩士の教育に力を入れていた」と自賛していますが、それは当時の勉学の基本である規範的古書の暗記を殊更に徹底するもので「柔軟な思考や多様な知識は著しく欠落していた」とも指摘されています。しかし、長崎警備の任務を遂行する上で来航するオランダ船の急速な進歩・発達を直視していたことから、同様に藩主自ら蘭学の研鑽に励んでいた鹿児島・島津藩、四国・宇和島の伊達藩、福岡・黒田藩と競うように西洋文明の導入を進めていきました。
江藤さんは天保5(1834)年にそんな佐賀藩で郡目付を務める下級武士の長男として生まれました。数えの15歳で藩校の弘道館の内生(初等・中等課程)に入学すると成績抜群で大いに期待を集めましたが、父親が職務怠慢で解職・永蟄居の処分を受けたため外生(高等課程)には進めず、弘道館の教授を務めていた儒学・国学者の私塾で学び、神道や尊皇思想を植えつけられたようです(佐賀藩は西洋文明の導入を進めていたので攘夷ではなかった)。その後は独自の活動によって他藩にも人脈を広げつつ存在感を増し、島津藩と毛利藩が倒幕の謀反に踏み切ると裏舞台で戦略に関与・暗躍したのです。そんな江藤さんが表舞台に立ったのは無血開城が成立した後も江戸の治安の維持に当っていた旧幕臣の彰義隊を敵視した新政府軍が武力制圧した上野戦争で、毛利藩の軍監・村田蔵六さんと協議して佐賀藩が保有するアームストロング砲を彰義隊の拠点である寛永寺付近に撃ち込み、外に追い出したところを銃で迎え撃つ作戦で旧幕臣たちに「武士道と云うは死ぬことと見つけたり(葉隠・聞書第一の冒頭)」の散り花を咲かせたのです。
明治新政府では江戸への遷都を実現するなど(島津藩・毛利藩の主流派は大阪遷都を考えていた)、政治的に無能な公家に迎合することなく実務を推し進め、中でも法令の整備には心血を注ぎ、日本が早い段階で近代法治国家になれたのは江藤さんの功績です。
その一方で「四民平等」「人権尊重」などの近代民主主義を謳うフランスの法典に佐賀藩式に傾倒したため、立憲君主制を主旨とするドイツの憲法を子飼いにした伊藤博文さんに研究させていた大久保利通さんと厳しく対立することになりました。
こうして征韓論を期に下野すると佐賀での不満分子の指導者になり、敵対する大久保さんもそれを見越して征討の準備を進め、2月16日に佐賀県庁=佐賀城に駐留する政府軍を攻撃したことから「佐賀の乱」が勃発したのです。結局、乱は2週間で終わり、江藤さんは逃亡して鹿児島の西郷南洲翁や高知の同志に武装決起を懇願しますが果たせず、自分が採用した写真手配によって高知県内で捕縛され、佐賀に移送されたのです。
裁判では江藤さんの圧倒的な迫力と明哲な論理に裁判官が委縮して、十分な取り調べもないまま江藤さん自身が策定した刑法の反乱罪に基づいて死刑=斬首・晒し首の判決が下りました。江藤さんの生首の写真は高校の歴史資料に載っていました。
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  1. 2019/04/12(金) 11:19:15|
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