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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

4月13日・日本の形を明らかにした伊能忠敬の命日

文化15(1818)年の4月13日は北海道、本州、四国、九州だけでなく主要な離島の全周を踏破して科学的な測量を行い「大日本沿海與地全図」を完成させ、初めて日本の形を明らかにした伊能忠敬さんの命日です。
伊能さんは裃(かみしも)、袴姿で傍らに大刀を置いた肖像画が有名なので士分かと思ってしまいますが実際は町人の名主でした。このため髪型は町人髷です。
名主は農村の庄屋と同じ格式で中でも伊能家は当時の河川を利用した水運の拠点として大変に繁栄していた佐倉の豪商でもありました。
当時、伊能家では一族が次々と早逝しており、先ず妻の両親が相次いで亡くなり、続いて1歳だった妻が育つまでのつなぎ役になっていた伯父が死に、さらに14歳で結婚した婿まで逝ってしまいました。そんな中、両親の血縁者が領主から命じられた土木工事の現場監督を任せられた若者が有能であることから婿養子として迎えられたのが17歳の伊能さんだったのです。この時、幕府の昌平坂学問所の塾頭・林述斉から「忠敬」の忌み名を授けられていることでも伊能家の地位と財力、何よりも知性が窺えます。
伊能さんは浅間山の噴火を発端とする天明の不作が始まると水運を通じた情報で事態が拡大・深刻化することを察知し、即刻、関東圏の米を買い占めました。この時は江戸の米穀商も同様の買い占めを行いましたが問題は飢饉が発生してからの行動でした。
江戸の米穀商は米価を釣り上げて暴利をむさぼったことで庶民の憎悪を買って打ち壊しの憂き目に遭いましたが伊能家では無料の炊き出しを行い各地からの避難民にまで等しく施したのです。このため盗賊などに備えて近隣住人が自主的に警備を行ってくれたと言われています。この功績で士分に取り立てられた記念に描かせたのがあの肖像画でした。
こうして途絶える寸前だった伊能家を発展させた忠敬さんでしたが家庭的には恵まれず、婿養子になった最初の妻は2女・1男を儲けたものの天明3(1783)年に42歳で亡くなり、その4年後に内妻とした女性は2男・1女を生みながら寛政2(1790)年に26歳で亡くなり、次に仙台藩医の娘を後妻に迎えたものの5年後の寛政7(1795)年に亡くなり、最後に江戸で内妻とした才女(漢詩人・歌人で算術も得意)とは測量に出て留守がちになったことで別れてしまいました。それでも幸いなことに最初の妻が生んだ嫡男が家督を継ぎ、内妻が生んだ男子は測量を手伝って技能を継承しました。
伊能さんが本格的に測量と天文学を学んだのは50歳で後妻を亡くしたのを期に家督を嫡男に譲ってからで、江戸へ出て大阪の民間の専門学者・麻田剛立さんの門下から幕府天文方に着任したばかりの高橋至時さんと間重富さんに師事したのです。
伊能さんは当初は暦として天文に関心を持ち、和漢蘭の学術書を取り寄せて独学で研究していたため遅い入門でも基礎知識は十分で、関東の各地を測量して技能を磨いったのです。やがてロシア船の襲来で北海道の現地情勢を探索する必要に駆られた幕府によって測量を許可され(資金は自腹だった)、その出来栄えに驚嘆した幕府から全国を測量することを命令されて(公費になった)17年にも呼ぶ大事業を成し遂げたのです。
伊能忠敬「風雲児たち」より転用
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  1. 2019/04/13(土) 10:02:47|
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